福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・土地の売買勝手次第
又各国巡回中、待遇の最も濃なるは和蘭の右に出るものはない。是れは三百年来特別の関係で爾うなければならぬ。殊に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴中第二の故郷に帰たような訳けで自然に居心が宜い。夫れは扨置き和蘭滞留中に奇談がある。或るとき使節がアムストルダムに行て地方の紳士紳商に面会、四方八方の話の序に、使節の問に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと云うに、彼の人答えて、「固より自由自在。「外国人へも売るか。「値段次第、誰にでも、又何ほどにても。「左れば爰に外国人が大資本を投じて広く上地を買占め、之に城廓砲台でも築くことがあったら、夫れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は是れまで考えたことはない。如何に英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買て城を築くような馬鹿気た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑しかったが、当時日本の外交政略は凡そこの辺から割出したものであるから堪らない訳けさ。
書き下し
又各国巡回中、待遇の最も濃なるは和蘭の右に出るものはない。是れは三百年来特別の関係で爾うなければならぬ。殊に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴中第二の故郷に帰たような訳けで自然に居心が宜い。夫れは扨置き和蘭滞留中に奇談がある。或るとき使節がアムストルダムに行て地方の紳士紳商に面会、四方八方の話の序に、使節の問に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと云うに、彼の人答えて、「固より自由自在。「外国人へも売るか。「値段次第、誰にでも、又何ほどにても。「左れば爰に外国人が大資本を投じて広く上地を買占め、之に城廓砲台でも築くことがあったら、夫れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は是れまで考えたことはない。如何に英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買て城を築くような馬鹿気た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑しかったが、当時日本の外交政略は凡そこの辺から割出したものであるから堪らない訳けさ。
現代語訳
また各国を巡回中、待遇のもっとも手厚かったのはオランダの右に出るものはありません。これは三百年来の特別な関係からして当然でした。ことに私をはじめ同行中に、横文字を読む人で蘭文を知らない者はありませんから、文書・言語でいえば、ヨーロッパ中の第二の故郷に帰ったようなもので、自然と居心地がよいのです。それはさておき、オランダ滞在中に奇談があります。あるとき、使節がアムステルダムに行って、地方の紳士・紳商に面会し、四方八方の話のついでに、使節が尋ねました。「このアムステルダム府の土地は売買が自由であるか」と言うと、その人が答えて、「もとより自由自在です」。「外国人へも売るか」。「値段しだいで、誰にでも、またどれほどでも」。「それならここに外国人が大資本を投じて広く土地を買い占め、そこに城郭や砲台でも築くことがあったら、それでも勝手しだいか」と言うと、その人も妙な顔をして、「そんなことはこれまで考えたこともありません。いかに英仏その他の国々に金持ちが多いといっても、他国の地面を買って城を築くような馬鹿げた商人はありますまい」と答えて、双方とも要領を得ない様子で、私どもはこれを見て実に可笑しかったのですが、当時の日本の外交政略は、おおよそこのあたりから割り出したものでしたから、たまったものではありません。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・見物自由の中又不自由夫れは扨居き、私がこの前亜米利加に行たときには、カリフ※ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士に上て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴各国を彼方此方と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或は名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却て招待の多いのに草臥れると云う程の次第であったが、唯こゝに一つ可笑しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に遇うことを止めようとするのが可笑しい。使節は竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附と云う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目ッ張子で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六かしい。同行者は何れも幕府の役人連で、その中に先ず同志同感、互に目的を共にすると云うのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊に三人とも陪臣で、然かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方の下役が附いて行かなければならぬと云う御定まりで始終附て廻る。此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣いもないが、妙な役人が附て来れば只蒼蠅い。蒼蠅いのはマダ宜いが、その下役が何か外に差支があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に==是れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担いで来て、欧羅巴各国を巡回するようなものだと云て、三人で笑たことがあります。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・幕府に雇わる亜米利加から帰てから塾生も次第に増して相替らず教授して居る中に、私は亜米利加渡航を幸に彼の国人に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉く英書を教える。所がマダなか/\英書が六かしくて自由自在に読めない。読めないから便る所は英蘭対訳の字書のみ。教授とは云いながら、実は教うるが如く学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の閣老又は外国奉行へ差出す書翰を飜訳する為めである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず和蘭の飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字読む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたに就ては自から利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。如何かしてこの飜訳文を見ずに直接に英文を飜訳してやりたいものだと思て試みる、試みて居る間に分らぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うような訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には自から書物がある、種々様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは勿論、借りて自家へ持て来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身の為めに大に便利になりました。
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福翁自伝・長崎遊学それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
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福翁自伝・再度米国行・御国益論に抵抗す夫れから私共が亜米利加に行た所で、その時に日本は国事多端の折柄、徳川政府の方針に万事倹約は勿論、仮令い政府であろうとも利益あることには着手せねばならぬと云うので、その掛の役人を命じて御国益掛と云うものが出来た。種々様々な新工夫の新策を奉る者があれば、ソレを政府に採用していろ/\な工夫をする。例えば江戸市中の何処の所に掘割をして通船の運上を取るが宜しいと云う者もあり、又或は新川に這入る酒に税を課したら宜かろうとか、何処の原野の開墾を引受けてソレで幾らかの運上を納めようと云う者もあり、又或る時江戸市中の下肥を一手に任せてその利益を政府に占めようではないかと云う説が起た。スルト或る洋学者が大に気を吐て、政府が差配人を無視して下肥の利を専らにせんとは、是れは所謂圧制政府である、昔し/\亜米利加国民はその本国英の政府より輸入の茶に課税したるを憤り、貴婦人達は一切茶を喫ずして茶話会の楽しみをも廃したと云うことを聞た、左れば吾々もこの度は米国人の顰に傚い、一切上を廃して政府を困らして遣ろうではないか、この発案の可否如何とて、一座大笑を催したことがある。政府の事情が凡そ斯う云う風であるから、今度の一行中にも例の御国益掛の人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の価は次第に高くなるに違いない、依て今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない。「原書買入は甚だ宜しい。日本には原書が払底であるから一冊でも余計に輸入したいと思う所に、幸なる哉、今度米国に来て官金を以て沢山に買入れ、日本に持て帰て原価でドシ/\売て遣ろう、左様なれば誠に難有い。如何ようにも勉強して、安いもの適当なものを買入れよう。この儀は如何で御座ると尋れば、「イヤ左様でない、自から御国益にする積りだと云う。「左すれば政府は商売をするのだ。私は商売の宰取りをする為めに来たのではない、けれども政府が既に商売をすると切て出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。何れでも宜しい、政府が買た儘の価で売て呉れると云えば、私はどんなにでも骨を折て、本を吟味して値切り値切て安く買うて売て遣るようにするが、政府が儲けると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サア爰が官商分れ目だ。如何で御座ると捩り込んで、大変喧しい事になって、大に重役の歓心を失うて仕舞たが、今日より考えれば事の是非に拘わらず、随行の身分にして甚だ宜くない事だと思います。
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福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・英学発心ソコデ以て蘭学社会の相場は大抵分て先ず安心ではあったが、扨又此処に大不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即ち安政六年、五国条約と云うものが発布になったので、横浜は正しく開けた計りの処、ソコデ私は横浜に見物に行た。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居る丈けで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住で店を出して居る。其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分らなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知て居る文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩く中に独逸人でキニツフルと云う商人の店に打当た。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰て来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度一昼夜歩いて居た訳けだ。
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