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福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・敷物に驚く

所が此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて発明するような訳け。何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿て居る。ソレでホテルに案内されて行て見ると、絨氈が敷詰めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、先ず日本で云えば余程の贅沢者が一寸四方幾干と云て金を出して買うて、紙入にするとか莨入にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加人が往来を歩いた靴の儘で颯々と上るから此方も麻裏草履でその上に上た。上ると突然酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、先ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か浮て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、先ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて胆を潰して吹出す者もあれば、口から出さずにガリ/″\噛む者もあると云うような訳けで、漸く氷が這入て居ると云うことが分った。ソコで又煙草を一服と思た所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸と点けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄る所がない。夫れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉で/\火の気のないように捩付けて袂に入れて、暫くして又後の一服を遣ろうとするその時に、袂から煙が出て居る。何ぞ図らん、能く消したと思たその吸殻の火が紙に移て煙が出て来たとは大に胆を潰した。

書き下し

所が此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて発明するような訳け。何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿て居る。ソレでホテルに案内されて行て見ると、絨氈が敷詰めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、先ず日本で云えば余程の贅沢者が一寸四方幾干と云て金を出して買うて、紙入にするとか莨入にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加人が往来を歩いた靴の儘で颯々と上るから此方も麻裏草履でその上に上た。上ると突然酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、先ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か浮て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、先ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて胆を潰して吹出す者もあれば、口から出さずにガリ/″\噛む者もあると云うような訳けで、漸く氷が這入て居ると云うことが分った。ソコで又煙草を一服と思た所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸と点けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄る所がない。夫れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉で/\火の気のないように捩付けて袂に入れて、暫くして又後の一服を遣ろうとするその時に、袂から煙が出て居る。何ぞ図らん、能く消したと思たその吸殻の火が紙に移て煙が出て来たとは大に胆を潰した。

現代語訳

ところが、こちらは何から何まで不慣れで、たとえば馬車を見ても初めてですから、実に驚きました。そこに車があって馬がついていれば乗り物だと分かりそうなものですが、一見しただけではちょっと見当がつきません。戸を開けて入ると馬が駆け出す。なるほどこれは馬のひく車だと、初めて悟るようなわけです。日本人はみな大小の刀を差して、履物は麻裏草履をはいています。そうしてホテルに案内されて行ってみると、絨毯が敷き詰めてありましたが、その絨毯はどんなものかというと、日本でいえばよほどの贅沢者が一寸四方いくらと言って金を出して買い、紙入れにするとか煙草入れにするとかいうような珍しい品物を、八畳も十畳もの恐ろしく広い所に敷き詰めてあって、その上を靴で歩くとは、なんとも途方もないことだと実に驚きました。けれどもアメリカ人が往来を歩いた靴のままでさっさと上がるので、こちらも麻裏草履のままその上に上がりました。上がると突然、酒が出ます。徳利の口を開けると恐ろしい音がして、変なことだと思ったのはシャンパンでした。そのコップの中に何か浮いているのも分かりません。三、四月の暖かい時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ずらりと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲むときの有様を申せば、並んだ日本人の中で、コップに浮いているものを口に入れて肝をつぶして吹き出す者もあれば、口から出さずにガリガリ噛む者もあるというわけで、ようやく氷が入っていることが分かりました。そこでまた煙草を一服と思ったところが、煙草盆がない、灰吹きがないので、そのとき私はストーブの火でちょっと点けました。マッチも出ていたでしょうが、マッチも何も知りませんから、ストーブで吸いつけたところ、どうも灰吹きがないので吸い殻を捨てる所がありません。そこで懐中の紙を出して、その紙の中に吸い殻を吹き出し、念を入れてもみもみ、火の気のないようにねじりつけて袂に入れ、しばらくして、また次の一服をやろうとするとき、袂から煙が出ています。何と、よく消したと思った吸い殻の火が紙に移って煙が出てきたとは、大いに肝をつぶしました。

解説

馬車、絨毯、シャンパンの氷、そしてストーブでつけた煙草。文化の違いに戸惑う一行の様子が、細部で描かれています。福沢は自分の失敗も隠さず、吸い殻を紙に包んで袂に入れ、煙が出たと書きます。滑稽ですが、ここには観察の姿勢があります。見聞きしたものを自分の知る物差しに置き換えて理解しようとする。絨毯を紙入れの革に例える比喩がそれです。異文化に入った初日は誰でも不慣れで、笑われても観察を止めないこと。現代の海外出張や新しい職場でも、最初の失敗を材料にできる人が早く馴染みます。

この章句が説くこと

馬車絨毯シャンパン異文化不慣れ失敗談

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