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福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・牢屋に大地震の如し

所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。

書き下し

所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。

現代語訳

さて、三十七日かかってサンフランシスコに着きました。航海中、私は身体が丈夫なのか、怖いと思ったことは一度もありません。いつも同船の人に冗談を言っていました。「これは何のことはない、生まれてからまだ試したことはないが、牢屋に入って毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」と笑っているくらいで、船が沈むだろうなどとは少しも思いません。それは私が西洋を信ずる念が骨身に徹していたからでしょう、少しも怖いと思いませんでした。 それから途中で水が乏しくなったので、ハワイに寄るか寄らないかという議論が起こりました。辛抱して行けばハワイに寄らなくても間に合うだろうが、念のためにいえば寄港して水を取って行くべきだ、どうしようかということでしたが、結局ハワイには寄らずにサンフランシスコへ直航と決まりました。そこで水の節約です。飲む以外は一切水を使ってはならないということになりました。ところがそのとき、大いに人を感激させたことがあります。船中にアメリカの水夫が四、五人いましたが、その水夫たちが、ともすれば水を使うので、ブルック艦長に、水夫が水を使って困ると言いつけると、艦長が言うには、水を使ったらすぐ鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵だから、説諭も要らないし、理由を問う必要もない、すぐ銃殺してくださいというのです。理屈を言えば、そのとおりに違いありません。そして水夫を呼んで、水を使えば鉄砲で撃ち殺すからそう思え、ということで水を節約したので、どうにかこうにか水が尽きることなく、一同合わせて九十六人、無事にアメリカに着きました。船中の混雑は容易ならぬもので、水夫たちはみな筒袖の着物を着ていますが、履物は草鞋です。草鞋が何百何千足も蓄えてあったものと見えます。船の中はもうびしょびしょで、からりとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。まことに船の中は大変な混雑でした(サンフランシスコに着いた後、艦長が奮発して水夫たちに長靴を一足ずつ買ってやり、それで大いに見栄えがよくなりました)。

解説

三十七日の太平洋横断を、福沢は牢屋で毎日大地震にあうようなものだと笑い飛ばします。恐れなかった理由は、西洋への信が骨に徹していたからという自己分析です。水の欠乏という危機では、ブルック艦長が水を使う者は銃殺してくれと言い放ち、全員の命を守りました。共同の資源が限られるとき、例外を認めないルールの明確さが組織を救うという実例です。時は万延元年、帆船同然の小型艦での渡洋でした。現代の職場でも、限られた予算や時間を守るには、情に流れない線引きが必要な場面があります。

この章句が説くこと

桑港三十七日牢屋の大地震水の節約ブルック共同の敵

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