福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・米国人の歓迎祝砲(2)
ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歓迎と云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様がないと云う程の歓迎。亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業に着て自分と同じ事をすると同様、乃公がその端緒を開いたと云わぬ計の心持であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎いに来て、取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立た人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、船渠に入れて修覆をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくり為て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰えないと云うので、自分賄と云う訳けにした所が、亜米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云うことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て来て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節今日は桑港に来いと云て誘う。夫れから船に乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
書き下し
ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歓迎と云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様がないと云う程の歓迎。亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業に着て自分と同じ事をすると同様、乃公がその端緒を開いたと云わぬ計の心持であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎いに来て、取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立た人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、船渠に入れて修覆をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくり為て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰えないと云うので、自分賄と云う訳けにした所が、亜米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云うことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て来て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節今日は桑港に来いと云て誘う。夫れから船に乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
現代語訳
さて、無事に港に着いてみると、向こうの人々の歓迎といったら、それはそれは実に至れり尽くせり、これ以上の仕様がないというほどの歓迎でした。アメリカ人の身になって見れば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開かせたその日本人が、ペリーの日本行きから八年目に自分の国に航海してきたというわけですから、ちょうど自分の学校から出た生徒が実業に就いて自分と同じことをするようなもので、おれがその端緒を開いたのだと言わんばかりの心持ちであったに違いありません。そこでもう日本人を手のひらに乗せて、不自由をさせないように不自由をさせないようにとばかり、サンフランシスコに上陸するやいなや馬車で迎えに来て、とりあえず市中のホテルで休息ということでしたが、そのホテルには、市の役人か何かは知りませんが、市中の主だった人が雲霞のごとく大勢で出てきました。さまざまの接待、饗応。それからサンフランシスコの近くのメア・アイランドというところで、海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の宿所として貸してくれ、船は航海中にずいぶん傷んだ所ができたからと、ドックに入れて修理をしてくれます。滞在中はもちろん向こうで賄いも何もそっくりしてくれるはずでしたが、水夫をはじめ日本人が洋食に慣れず、やはり日本の飯でなければ食べられないというので、自炊ということにしたところ、アメリカの人は日本人が魚類を好むことをよく知っているので、毎日魚を持ってきてくれたり、あるいは日本人は風呂が好きだというので、毎日風呂を沸かしてくれたりしました。ところが、メア・アイランドは町ではありませんから、ときどき、今日はサンフランシスコに来いと誘われます。そこで船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応するということが、たびたびありました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・義勇兵所で私が二度目に亜米利加に行たとき、甲比丹ブルックに再会して八年目に聞た話がある。それは最初日本の咸臨丸が亜米利加に着たとき、桑港で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛にしなければならぬと云うので、彼処に陸軍の出張所を見たようなものがある。其処へ甲比丹ブルックが行て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓に伺うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で遣れと談じても、兎角埓が明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方に仕様があると云て、夫れから方向を転じて桑港の義勇兵に持込んで、どうだ斯う云う訳けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦びで直に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断軍役のあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か暇な時か又は月夜などに操練をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は先ず若い者の道楽仕事であるから、折角拵えた軍服も滅多に着ることがない所に、今度甲比丹ブルックの話を聞て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・米国人の歓迎祝砲(1)海上恙なく桑港に着た。着くやいなや土地の重立たる人々は船まで来て祝意を表し、之を歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。次で陸から祝砲を打つと云うことになって、彼方から打てば咸臨丸から応砲せねばならぬと、この事に就て一奇談がある。勝麟太郎と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端差図する中に、彼の祝砲の事が起た。所で勝の説に、ソレは迚も出来る事でない、ナマジ応砲などして遣り傷うよりも此方は打たぬ方が宜いと云う。爾うすると運用方の佐々倉桐太郎は、イヤ打てないことはない、乃公が打て見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、夫れから水夫共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計を以て時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張り出した。首尾克く出来たから勝の首は乃公の物だ。併し航海中、用も多いから暫く彼の首を当人に預けて置くと云て、大に船中を笑わした事がある。兎も角もマア祝砲だけは立派に出来た。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・咸臨丸ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加に軍艦を遣ると云う日本開闢以来、未曾有の事を決断しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入に蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭から買入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸く進歩したから、この度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云う訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海の事に就ては色々お話がある。 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加の甲比丹ブルツクと云う人が、太平洋の海底測量の為めに小帆前船ヘネモコパラ号に乗て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乗て帰国したいと云うので、その事が定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も余程困た様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云う老婆心であったと思われる。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・牢屋に大地震の如し所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・不在中桜田の事変(1)帰る時は南の方を通たと思う。行くときとは違て至極海上は穏かで、何でもその歳には閏があって、閏を罩めて五月五日の午前に浦賀に着した。浦賀には是非錨を卸すと云うのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論湯に這入ると云うことの出来る訳けもない、口嗽をする水がヤット出来ると云う位な事で、身体は汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は扨置き一番先に月代をして夫れから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗て陸に着くと、木村のお迎が数十日前から浦賀に詰掛けて居て、木村の家来に島安太郎と云う用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上てその島に遇うた。正月の初に亜米利加に出帆して浦賀に着くまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。その間は僅に六箇月の間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、殆んど六ヶ年も遇わぬような心地。ヒョイと浦賀の海岸で島に遇て、イヤ誠にお久振り、時に何か日本に変た事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色を変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、一寸と島さん待て呉れ、云うて呉れるな、私が中てゝ見せよう、大変と云えば何でも是れは水戸の浪人が掃部様の邸に暴込んだと云うような事ではないかと云うと、島は更らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を知て居る、何処で誰れに聞た、聞たって聞ないたって分るじゃないか、私はマア雲気を考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤ是れはどうも驚いた、邸に暴込んだ所ではない、斯う/\云う訳けだと云て、桜田騒動の話をした。その歳の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは大凡そ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だと思て居たから、偶然にも中たので誠に面白かった。
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