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福翁自伝 / 緒方の塾風・工芸伎術に熱心(1)

夫れから又一方では今日のように都て工芸技術の種子と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと云てもありはせぬ。化学の道具にせよ、何処にも揃ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども爾う云う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は知て居るから、如何かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄の物を拵えると云うことに就ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸亜鉛があれば鉄にも錫を附けることが出来ると云うことを聞て知て居る。夫れまで日本では松脂ばかりを用いて居たが、松脂では銅の類に錫を流して鍍金することは出来る。唐金の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店に行ても塩酸のある気遣はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に依て何うやら斯うやら塩酸を拵えて、之に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて堪らぬ。或は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々書籍を取調べ、天満の八百屋市に行て昆布荒布のような海草類を買て来て、夫れを炮烙で煎て如何云う風にすれば出来ると云うので、真黒になって遣たけれども是れは到頭出来ない。それから今度は砂製造の野心を起して、先ず第一の必要は塩酸暗謨尼亜であるが、是れも勿論薬店にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何するかと云えば、骨……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋などに馬爪の削屑がいくらもあって只呉れる。肥料にするかせぬか分らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ貰て来て徳利に入れて、徳利の外面に土を塗り、又素焼の大きな瓶を買て七輪にして沢山火を起し、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を扇ぎ立てると管の先きからタラ/\液が出て来る。

書き下し

夫れから又一方では今日のように都て工芸技術の種子と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと云てもありはせぬ。化学の道具にせよ、何処にも揃ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども爾う云う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は知て居るから、如何かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄の物を拵えると云うことに就ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸亜鉛があれば鉄にも錫を附けることが出来ると云うことを聞て知て居る。夫れまで日本では松脂ばかりを用いて居たが、松脂では銅の類に錫を流して鍍金することは出来る。唐金の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店に行ても塩酸のある気遣はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に依て何うやら斯うやら塩酸を拵えて、之に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて堪らぬ。或は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々書籍を取調べ、天満の八百屋市に行て昆布荒布のような海草類を買て来て、夫れを炮烙で煎て如何云う風にすれば出来ると云うので、真黒になって遣たけれども是れは到頭出来ない。それから今度は砂製造の野心を起して、先ず第一の必要は塩酸暗謨尼亜であるが、是れも勿論薬店にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何するかと云えば、骨……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋などに馬爪の削屑がいくらもあって只呉れる。肥料にするかせぬか分らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ貰て来て徳利に入れて、徳利の外面に土を塗り、又素焼の大きな瓶を買て七輪にして沢山火を起し、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を扇ぎ立てると管の先きからタラ/\液が出て来る。

現代語訳

それからまた一方では、今日のようにすべて工芸技術の種子というものがありませんでした。蒸気機関などは日本国中で見ようと言ってもありはしません。化学の道具にしても、どこにもそろったものはありそうにもない。そろった物どころではない、不完全な物もありはしない。けれどもそういう中にいながら、機械のことにしても化学のことにしても、大体の道理は知っているから、何とかして実地を試みたいものだというので、原書を見てその図を写し、似寄りの物をこしらえるということについては、なかなか骨を折りました。私が長崎にいるとき、塩化亜鉛があれば鉄にも錫を付けることができるということを聞いて知っていました。それまで日本では松脂ばかりを用いていましたが、松脂では銅の類に錫を流して鍍金することはできます。唐金の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋の仕事ですが、塩化亜鉛があれば鉄にも錫が付くというので、同塾生と相談してその塩化亜鉛を作ろうとしたところ、薬店に行ってもその塩酸があるはずがない。自分でこしらえなければならない。塩酸をこしらえる方法は書物で分ります。その方法によって、どうにかこうにか塩酸をこしらえ、これに亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋が夢にも知らないことが立派にできたというようなことが、面白くて堪りません。あるいはまたヨジウム(ヨード)を作ってみようではないかと、いろいろ書籍を調べ、天満の八百屋市に行って、昆布や荒布のような海草類を買ってきて、それを焙烙で煎り、どういうふうにすればできるというので、真っ黒になってやりましたが、これはついにできませんでした。それから今度は硝石製造の野心を起こして、まず第一に必要なのは塩化アンモニアですが、これももちろん薬店にある品物ではありません。そのアンモニアを造るにはどうするかといえば、骨……骨よりもっと手間なしにできるのは、鼈甲屋などに馬の爪の削り屑がいくらもあって、ただでくれます。肥料にするかしないか分りませんが、行きさえすればくれるから、それをどっさりもらってきて徳利に入れ、徳利の外側に土を塗り、また素焼きの大きな瓶を買って七輪にして、たくさん火を起こし、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を付けて瓶の外に出すなど、いろいろ工夫して、どしどし火を扇ぎ立てると、管の先からタラタラと液が出てきます。

解説

蒸気機関も化学器具も国内にない時代に、原書の図を頼りに実験を重ねた塾生の姿です。塩酸を自作して亜鉛を溶かし、鉄に錫を付ける。ヨードや硝石の製造では失敗もありますが、原理を知っているから試したくて堪らないという好奇心が突き動かしています。馬の爪の削り屑を貰い受けて徳利で蒸し焼きにするという発想は、乏しい資源の中での創意です。知識と実践を結びつける姿勢は、現代の技術者や起業家にも通じます。道具がないから諦めるのではなく、作ってみる精神が際立つ一節です。

この章句が説くこと

実験工芸技術塩酸原書好奇心緒方塾

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