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福翁自伝 / 緒方の塾風・工芸伎術に熱心(2)

即ち是れが暗謨尼亜である。至極旨く取れることは取れるが、爰に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも云いようがない。那の馬爪、あんな骨類を徳利に入れて蒸焼にするのであるから実に鼻持もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で遣るのであるから奥で以て堪らぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石の乱暴書生も是れには辟易して迚も居られない。夕方湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う訳け。仮令い真裸体で遣ても身体が臭いと云て人に忌がられる。勿論製造の本人等は如何でも斯うでもして砂と云う物を拵えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻りに試みて居るけれども、何分周辺の者が喧しい。下女下男迄も胸が悪くて御飯が給べられないと訴える。其れ是れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉のような物ばかりで結晶しない。如何しても完全な砂にならない、加うるに喧しくて/\堪らぬから一旦罷めにした。けれども気強い男はマダ罷めない。折角仕掛った物が出来ないと云ては学者の外聞が悪いとか何とか云うような訳けで、私だの久留米の松下元芳、鶴田仙庵等は思切たが、二、三の人は尚お遣た。如何したかと云うと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇うて、その船に例の瓶の七輪を積込んで、船中で今の通りの臭い仕事を遣るは宜いが、矢張り煙が立て風が吹くと、その煙が陸の方へ吹付けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ズット下の玉江橋辺まで、上下に迯げて廻て遣たことがある。その男は中村恭安と云う讃岐の金比羅の医者であった。この外にも犬猫は勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に就ても中々勉強したものだ。

書き下し

即ち是れが暗謨尼亜である。至極旨く取れることは取れるが、爰に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも云いようがない。那の馬爪、あんな骨類を徳利に入れて蒸焼にするのであるから実に鼻持もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で遣るのであるから奥で以て堪らぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石の乱暴書生も是れには辟易して迚も居られない。夕方湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う訳け。仮令い真裸体で遣ても身体が臭いと云て人に忌がられる。勿論製造の本人等は如何でも斯うでもして砂と云う物を拵えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻りに試みて居るけれども、何分周辺の者が喧しい。下女下男迄も胸が悪くて御飯が給べられないと訴える。其れ是れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉のような物ばかりで結晶しない。如何しても完全な砂にならない、加うるに喧しくて/\堪らぬから一旦罷めにした。けれども気強い男はマダ罷めない。折角仕掛った物が出来ないと云ては学者の外聞が悪いとか何とか云うような訳けで、私だの久留米の松下元芳、鶴田仙庵等は思切たが、二、三の人は尚お遣た。如何したかと云うと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇うて、その船に例の瓶の七輪を積込んで、船中で今の通りの臭い仕事を遣るは宜いが、矢張り煙が立て風が吹くと、その煙が陸の方へ吹付けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ズット下の玉江橋辺まで、上下に迯げて廻て遣たことがある。その男は中村恭安と云う讃岐の金比羅の医者であった。この外にも犬猫は勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に就ても中々勉強したものだ。

現代語訳

すなわちこれがアンモニアです。きわめてうまく取れることは取れますが、ここで難儀なのはその臭気です。臭いにも臭くないにも何とも言いようがない。あの馬爪やあんな骨類を徳利に入れて蒸し焼きにするのですから、実に鼻持ちもなりません。それを緒方の塾の庭の狭い所でやるのですから、奥でたまらない。奥でたまらないばかりではありません。さすがの乱暴書生もこれには辟易して、とてもいられない。夕方湯屋に行くと着物が臭くて犬が吠えるというわけ。たとえ真っ裸でやっても、体が臭いと言って人に嫌がられる。もちろん製造の本人たちは、どうでもこうでも硝石というものをこしらえてみましょうという熱心があるから、臭いのも何も構わず、しきりに試みていますが、何分周辺の者がやかましい。下女下男までも、胸が悪くて御飯が食べられないと訴える。それやこれやの中で、やっと妙な物ができたことはできたが、粉のような物ばかりで結晶しない。どうしても完全な硝石にならない。加えて、やかましくてたまらないから、いったんやめにしました。けれども気強い男はまだやめない。せっかく仕掛けた物ができないと言っては学者の外聞が悪いとか何とか言うわけで、私や久留米の松下元芳、鶴田仙庵などは思い切りましたが、二、三の人はなおやりました。どうしたかというと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇い、その船に例の瓶の七輪を積み込み、船中で今のとおりの臭い仕事をやるのはいいが、やはり煙が立って風が吹くと、その煙が陸の方へ吹き付けられるので、陸の方でやかましく言う。やかましく言えば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ずっと下の玉江橋あたりまで、上下に逃げ回ってやったことがあります。その男は中村恭安という、讃岐の金毘羅の医者でした。このほかにも、犬猫はもちろん、死刑人の解剖、その他製薬の試験はたびたびのことでしたが、してみると当時の蘭学書生はいかにも乱暴なようですが、人の知らない所で読書研究、また実地のことについても、なかなか勉強したものです。

解説

アンモニア作りの失敗談で、その悪臭に周囲が音を上げ、ついには淀川の船の上で続けた男まで現れます。硝石を得るという目的に熱中するあまり、近隣の迷惑を顧みない様子には、研究者の執念と滑稽さが同居しています。気強い男が外聞を理由に続けたという点は、サンクコストに引きずられる心理にも通じます。福沢は最後に、乱暴に見えて、人の知らない所で読書と実地に励んだと評価します。見えない努力が後の成果を支えるという視点は、現代の仕事にも通じます。

この章句が説くこと

アンモニア実験悪臭執念淀川蘭学書生

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