福翁自伝 / 緒方の塾風・桃山から帰て火事場に働く(1)
塾中兎角貧生が多いので料理茶屋に行て旨い魚を喰うことは先ず六かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。マア云わば魚の残物のようなもので直が安い。夫れを買て来て洗水盥で洗て、机の毀れたのか何かを俎にして、小柄を以て拵えると云うような事は毎度遣て居たが、私は兼て手の先きが利いてるから何時でも魚洗の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山と云う処があって、盛りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。迚も彼方に行て茶屋で飲食いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物を買て来て、その外、氷豆腐だの野葉物だの買調えて、朝早くから起きて怱々に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、凡そ十四、五人も同伴があったろう、弁当を順持にして桃山に行て、さん/″\飲食いして宜い機嫌になって居るその時に、不図西の方を見ると大阪の南に当て大火事だ。日は余程落ちて昔の七ツ過。サア大変だ。丁度その日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与が行て居る。若しや長与が焼死はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと云うので、桃山から大阪迄、二、三里の道をどん/″\駈けて、道頓堀に駈付けて見た所が、疾うに焼けて仕舞い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延びて居る。長与は如何したろうかと心配したものゝ、迚も捜す訳けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方がない。「火事を見物しようじゃないかと云て、その火事の中へどん/\這入て行た。所が荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで遣ろうと云うので、夜具包か何の包か、風呂敷包を担いだり箪笥を担いだり中々働いて、段々進で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に綱を付けて家を引倒すと云うことがあるその網を引張って呉れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯を喰せる、酒を飲ませる。如何も堪えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を喰て八時頃にもなりましたろう。夫れから一同塾に帰た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ這入ると誠に静なもので、一人も人が居らぬ位。どうもない。只その周囲の処に人がドヤ/″\群集して居るだけである。夫れゆえ大きな声を出して蹴破って中へ飛込みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消の黒人と緒方の書生だけで大に働いた事があると云うような訳けで、随分活溌な事をやったことがありました。
書き下し
塾中兎角貧生が多いので料理茶屋に行て旨い魚を喰うことは先ず六かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。マア云わば魚の残物のようなもので直が安い。夫れを買て来て洗水盥で洗て、机の毀れたのか何かを俎にして、小柄を以て拵えると云うような事は毎度遣て居たが、私は兼て手の先きが利いてるから何時でも魚洗の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山と云う処があって、盛りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。迚も彼方に行て茶屋で飲食いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物を買て来て、その外、氷豆腐だの野葉物だの買調えて、朝早くから起きて怱々に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、凡そ十四、五人も同伴があったろう、弁当を順持にして桃山に行て、さん/″\飲食いして宜い機嫌になって居るその時に、不図西の方を見ると大阪の南に当て大火事だ。日は余程落ちて昔の七ツ過。サア大変だ。丁度その日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与が行て居る。若しや長与が焼死はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと云うので、桃山から大阪迄、二、三里の道をどん/″\駈けて、道頓堀に駈付けて見た所が、疾うに焼けて仕舞い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延びて居る。長与は如何したろうかと心配したものゝ、迚も捜す訳けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方がない。「火事を見物しようじゃないかと云て、その火事の中へどん/\這入て行た。所が荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで遣ろうと云うので、夜具包か何の包か、風呂敷包を担いだり箪笥を担いだり中々働いて、段々進で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に綱を付けて家を引倒すと云うことがあるその網を引張って呉れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯を喰せる、酒を飲ませる。如何も堪えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を喰て八時頃にもなりましたろう。夫れから一同塾に帰た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ這入ると誠に静なもので、一人も人が居らぬ位。どうもない。只その周囲の処に人がドヤ/″\群集して居るだけである。夫れゆえ大きな声を出して蹴破って中へ飛込みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消の黒人と緒方の書生だけで大に働いた事があると云うような訳けで、随分活溌な事をやったことがありました。
現代語訳
塾中はとかく貧しい書生が多いので、料理茶屋に行っておいしい魚を食べることはまず難しい。夜になると、天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立ちます。まあ言わば魚の残り物のようなもので、値が安い。それを買ってきて、洗面用の盥で洗い、机の壊れたのか何かを俎板にして、小柄でさばくということはよくやっていましたが、私はもともと手先が利くので、いつも魚洗いの役に回っていました。ころは三月、桃の花の時節で、大阪城の東に桃山というところがあり、盛りだというので、花見に行こうと相談ができました。とても向こうの茶屋で飲み食いすることはできないので、例のとおり前の晩に魚の残り物を買ってきて、そのほか、凍み豆腐や青物を買いそろえ、朝早くから起きて急いでこしらえ、それを折か何かに詰め、それから酒を買って、およそ十四、五人も同伴があったでしょうか、弁当を順番に持ち回って桃山に行き、さんざん飲み食いしていい機嫌になっていたそのとき、ふと西の方を見ると、大阪の南にあたって大火事です。日はよほど傾いて、昔の七ツ過ぎ。さあ大変だ。ちょうどその日、長与専斎が道頓堀の芝居を見に行っています。私たち花見連中は、大阪の火事に何の利害も感じないから、焼けても焼けなくても構わないが、長与が行っている。もしや長与が焼死しはしまいか。何でも長与を救い出さなければならぬというので、桃山から大阪まで、二、三里の道をどんどん駆けて、道頓堀に駆けつけて見たところが、とうに焼けてしまい、三つの芝居小屋とも焼けて、だんだん北の方に焼け延びています。長与はどうしたろうかと心配したものの、とても捜すわけにはいきません。間もなく日が暮れて夜になりました。もう夜になっては長与のことは仕方がない。「火事を見物しようじゃないか」と言って、その火事の中へどんどん入って行きました。ところが、荷物を片付けるので大騒ぎ。それならその荷物を運んでやろうというので、夜具包か何かの風呂敷包を担いだり、箪笥を担いだり、なかなか働いて、だんだん進んで行くと、そのとき大阪では、焼ける家の柱に綱を付けて家を引き倒すということがあり、その綱を引っ張ってくれと言う。「よし来た」とその綱を引っ張る。すると握り飯を食わせる、酒を飲ませる。何とも堪えられぬ面白い話です。さんざん酒を飲み握り飯を食って、八時ごろにもなったでしょう。それから一同塾に帰りました。ところがまだ焼けています。「もう一度行こうではないか」とまた出掛けました。そのときの大阪の火事というものは、まことに楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ入るとまことに静かなもので、一人も人がいないくらい。何ともありません。ただその周囲のところに人がどやどやと群集しているだけです。ですから大きな声を出して蹴破って中へ飛び込みさえすれば、まことに楽な話です。中には火消しの玄人と緒方の書生だけで大いに働いたということもあるような次第で、ずいぶん活発なことをやったものでした。
解説
この章句が説くこと
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『斉家論』上大坂大火の事を語るべし。予先年大和めぐりし、それより大坂へ出でしは、三月廿一日午の刻ばかり也。千日寺の茶店に休みしに、堀江辺より出火すといふ。焼け出しとは見えながら、すさまじき火なり。折節未申の風はげしく、いきほひつよく丑寅へ吹き付け、黒けぶりの中より、爰かしこに火煙みゆ。其の勢ひたとふべきにあらず。此の風にてはたまるまじとて、備後町油や何某といふ常宿へ行きみれば、うろたゆる体也。馴染の事なれば見捨てがたく、連れのうち両人は跡に残る。某は荷物を持たせ、八軒屋にて待つべしといひ別れぬ。八軒やの浜へ往きて見れば、もはや西本願寺御堂に火かかり、大風ゆへ、外のけぶりはさかまく波のごとくなれど、御堂の煙は、
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