都鄙問答 / 卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段
答、學問ニ因テ難義アリトハ、如何ナル事ゾヤ、曰、學問ヲサセ候者ドモ、十人ガ七八人モ、商賣農業ヲ疎略ニシ、且帶刀ヲ望、我ヲタカブリ、他ノ人ヲ見下シ、親ニモ面前ノ不孝ハイタサネドモ、事ニヨリテ、親ヲモ文盲ニ思ヤウナル顏色見ユ、然レドモ他人ノ聞惡キ樣ニ、反リ返答セヌコトハ、學問ノ德カト思ヘドモ、親ニハ默然ト、ダマリ居ル者ゾト云ヤウナル顏ツキ見ヘ、又少シニテモ、學問致タル者ナレバ、親達モ遠慮セラルヽ體ニ相見ヘ申候、夫ユヘ手前ノ忰モ、若シ左樣ニ成候ヘバ、迷惑ニ存ジ、得登セ申サズ候、如何イタシ然ルベク候ヤ、
新字:答、学問ニ因テ難義アリトハ、如何ナル事ゾヤ、曰、学問ヲサセ候者ドモ、十人ガ七八人モ、商売農業ヲ疎略ニシ、且帯刀ヲ望、我ヲタカブリ、他ノ人ヲ見下シ、親ニモ面前ノ不孝ハイタサネドモ、事ニヨリテ、親ヲモ文盲ニ思ヤウナル顔色見ユ、然レドモ他人ノ聞悪キ様ニ、反リ返答セヌコトハ、学問ノ徳カト思ヘドモ、親ニハ黙然ト、ダマリ居ル者ゾト云ヤウナル顔ツキ見ヘ、又少シニテモ、学問致タル者ナレバ、親達モ遠慮セラルヽ体ニ相見ヘ申候、夫ユヘ手前ノ忰モ、若シ左様ニ成候ヘバ、迷惑ニ存ジ、得登セ申サズ候、如何イタシ然ルベク候ヤ、
書き下し
答、学問に因て難義ありとは、如何なる事ぞや。曰、学問をさせ候者ども、十人が七八人も、商売農業を疎略にし、且帯刀を望、我をたかぶり、他の人を見下し、親にも面前の不孝はいたさねども、事によりて、親をも文盲に思やうなる顔色見ゆ。然れども他人の聞悪き様に、反り返答せぬことは、学問の徳かと思へども、親には黙然と、だまり居る者ぞと云やうなる顔つき見へ、又少しにても、学問致たる者なれば、親達も遠慮せらるゝ体に相見へ申候。夫ゆへ手前の忰も、若し左様に成候へば、迷惑に存じ、得登せ申さず候。如何いたし然るべく候や。
現代語訳
梅岩「学問によって困ったことが起きるとは、どういうことですか。」父親「学問をさせた者の十人に七八人は、商売や農業をおろそかにし、刀を差したがり、思い上がって人を見下します。親の面前で不孝はしませんが、場合によっては親を無学者と思っているような顔つきをします。人に聞こえの悪い口答えをしないのは学問のおかげかとも思いますが、親には『黙っていてやるのだ』と言わんばかりの顔つきで、少しでも学問をした者だというので、親の方が遠慮している様子です。息子もそうなっては困るので、京へ出せずにいるのです。どうしたらよいでしょうか。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下午の五月十七日、一庵に示して曰く、学文計して機をへらさずとも、心の强く成る位を仕習ふべし。その賢人は何とし、此の聖人は何と有りと、人の上を取て、我鼻に上けたりとも、何の用にも立つべからず。結句是れを以て人を賤めて居る物也。誠に今迄学して好き人を一人も見す、学した程の者は皆悪き也。兎角今の分になし行かば、其方も三十迄はいきぬずと也。因に去る人曰く、誠に学文は詮なき物也。儒者何某あれほと広学なれども、次第に欲深く成ると申す也。師曰く、次第に機沈み行く間、欲も深からてば、强い機ならてば切端なし。沈みたる機著、離れかたかるべし。一庵も兎角命は惜しかるべしと也。
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段一度我に疑ひ晴るることありて、後に味はふべき所なり。然るに今の世の人、文字に泥み、色々に作為するゆへに、昏々然と闇く、古人の心を知らざるゆへに、和漢ともに、文学他に勝れば、此れを徳と思ひ、我を伐る者多し。文学に伐る者を喩へて云はば、衆人の財宝をたくらべて、彼は劣れり、我は勝れりと伐るに同じ。学者に於ては、恥づべきことの第一なり。如何となれば、財宝も、かせぎ設けて吝くすれば溜る者なり。文字も其の如く、年を重ねて油断なく学べば、他より勝れる者なり。其の中に記憶能くして多く記すは、衆人の中に、仕合せ能く富めるが如し。又学者も、文字を読むのみにては、聖人の意味、神書の奥深き所知らるべきに非ず。然るに文字を滞りなく読めば、此の外も有るまじと思ふべきが、
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云はく、愚癡なる人は其の詮なきことを思ひ云ふなり、此につかはるゝ老尼公ありけるが、当時いやしげに在るをはづる顏にて、ともすれば人に向ては、昔しは上臘にてありしよしを語る、たとひ而今の人にさもありと思はれたりとも、なんの用とも覚えぬ、甚だ無用なりとおぼゆるなり、皆人の思はくは此の心あるかと覚ゆるなり、道心の無きほども知られたり、是れらの心を改めて、少し人には似るべきなり、亦有る入道の、極めて無道心なるあり、去り難き知音にてある故に、道心おこらんこと仏神に祈誓せよと云はんと思ふ、定て彼れ腹立して中をたがふことあらん、然あれども道心を発さヾらんには得意にてもたがひに詮なかるべし、
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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。
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尚書・周官寵に居りて危うきを思い、畏れざる罔く、畏れざれば畏るるに入る。