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福翁自伝 / 大阪修業・書生を懲らしめる(2)

ソレカラ一月経ち二月、三月経って、此方もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知ると云うことになって当り前に勉強して居る。一日その今の男を引捕まえた。引捕まえて面談、「お前は覚えて居るだろう、乃公が長崎から来て始めて入門したその日に何と云た、酒を飲みに行こうと云たじゃないか。その意味は新入生と云うものは多少金がある、之を誘出して酒を飲もうと斯う云う考だろう。言わずとも分て居る。彼の時に乃公が何と云た、乃公は酒は飲みたくて堪らないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎付けて、その翌日は又此方から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。能く考えて見ろ。憚り乍ら諭吉だからその位に強く云たのだ。乃公はその時には自から決する処があった。お前が愚図々々云うなら即席に叩倒して先生の処に引摺て行て遣ろうと思ったその決心が顔色に顕れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引込んで仕舞た。如何にしても済まない奴だ。斯う云う奴のあるのは塾の為めには獅子身中の虫と云うものだ。こんな奴が居て塾を卑劣にするのだ。以来新入生に遇て仮初にも左様な事を云うと、乃公は他人の事とは思わぬぞ。直ぐにお前を捕まえて、誰とも云わず先生の前に連れて行て、先生に裁判して貰うが宜しいか。心得て居ろと酷く懲しめて遣た事があった。

書き下し

ソレカラ一月経ち二月、三月経って、此方もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知ると云うことになって当り前に勉強して居る。一日その今の男を引捕まえた。引捕まえて面談、「お前は覚えて居るだろう、乃公が長崎から来て始めて入門したその日に何と云た、酒を飲みに行こうと云たじゃないか。その意味は新入生と云うものは多少金がある、之を誘出して酒を飲もうと斯う云う考だろう。言わずとも分て居る。彼の時に乃公が何と云た、乃公は酒は飲みたくて堪らないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎付けて、その翌日は又此方から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。能く考えて見ろ。憚り乍ら諭吉だからその位に強く云たのだ。乃公はその時には自から決する処があった。お前が愚図々々云うなら即席に叩倒して先生の処に引摺て行て遣ろうと思ったその決心が顔色に顕れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引込んで仕舞た。如何にしても済まない奴だ。斯う云う奴のあるのは塾の為めには獅子身中の虫と云うものだ。こんな奴が居て塾を卑劣にするのだ。以来新入生に遇て仮初にも左様な事を云うと、乃公は他人の事とは思わぬぞ。直ぐにお前を捕まえて、誰とも云わず先生の前に連れて行て、先生に裁判して貰うが宜しいか。心得て居ろと酷く懲しめて遣た事があった。

現代語訳

それから一月たち、二月、三月とたって、こちらもちゃんと塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知るということになり、当たり前に勉強していました。ある日、その今の男を引っ捕まえました。引っ捕まえて面談、「お前は覚えているだろう、俺が長崎から来て初めて入門したその日に、何と言った。酒を飲みに行こうと言ったじゃないか。その意味は、新入生というものは多少金がある、これを誘い出して酒を飲もうと、こういう考えだろう。言わずとも分かっている。あの時に俺は何と言った。俺は酒は飲みたくてたまらないけれども金がないから飲むことはできないとはねつけて、その翌日はまたこちらから促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。よく考えてみろ。憚りながら諭吉だから、その位に強く言ったのだ。俺はその時には自分で決めたことがあった。お前がぐずぐず言うなら、即席に叩き倒して先生のところへ引きずって行ってやろうと思った。その決心が顔色に現れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引っ込んでしまった。どうにも済まない奴だ。こういう奴がいるのは塾のためには獅子身中の虫というものだ。こんな奴がいて塾を卑劣にするのだ。以後、新入生に会って、かりそめにもそんなことを言うと、俺は他人のこととは思わぬぞ。すぐにお前を捕まえて、誰とも言わず先生の前に連れて行って、先生に裁判してもらうが、よろしいか。心得ていろ」と、ひどく懲らしめてやったことがありました。

解説

数か月後、福沢は初日の先輩を捕まえ、新入りから酒をせびる態度を厳しくとがめました。次は先生の前に連れて行く、と明言しているのが核心です。立場が逆転した新入生が、今度は新入生の味方になる形です。悪習を見逃さず、権力のない立場でも一対一で面と向かって正す姿勢が、塾の気風を保つ力になります。組織の中の卑劣な慣行を黙認しないこと、そして次の世代を守ることの価値を教えています。

この章句が説くこと

悪習懲戒新入生獅子身中の虫正義塾風

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