福翁自伝 / 大阪修業・兄弟共に病気
ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々茲に大なる不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯に罹り病症が甚だ軽くない。トウ/\手足も叶わぬと云う程になって、追々全快するが如く全快せざるが如くして居る間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持て書くと云うような容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予て世話になって居た加州の岸直輔と云う人が、腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六と云う者があって、是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送て遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日の火葬場に持て行て焼て、骨を本国に送り、先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩い付た。容体がドウも只の風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰た所が、是れは腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと云て居る間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云う。
書き下し
ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々茲に大なる不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯に罹り病症が甚だ軽くない。トウ/\手足も叶わぬと云う程になって、追々全快するが如く全快せざるが如くして居る間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持て書くと云うような容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予て世話になって居た加州の岸直輔と云う人が、腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六と云う者があって、是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送て遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日の火葬場に持て行て焼て、骨を本国に送り、先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩い付た。容体がドウも只の風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰た所が、是れは腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと云て居る間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云う。
現代語訳
そこで安政二年も終わり、三年の春になると、新春早々、ここに大きな不幸が起こりました。というのは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄がリウマチにかかり、病状がたいへん軽くありません。とうとう手足も利かないというほどになり、だんだん全快するようなしないようなことでいるうちに、右の手は使えず、左の手に筆を持って書くという容体でした。 それと同時に、その年の二月頃のことでしたが、緒方の塾の同窓で、私の先輩で、かねてお世話になっていた加州の岸直輔という人が腸チフスにかかり、なかなかの難症でした。そこで私は普段の恩人なので、こういう時に看病しなければならない。また加州の書生に鈴木儀六という者があって、これも岸と同国のよしみで、私と鈴木と二人で、昼夜看病して、およそ三週間も手を尽くしましたが、どうしても悪症で、とうとう助かりませんでした。この人は加賀の人で宗旨は真宗ですから、火葬にしてその遺骨を親元に送ってやろうと二人で相談の上、遺体を大阪の千日の火葬場に持って行って焼き、骨を本国に送り、これで事は済んだのですが、私が千日から帰って三、四日たつと、ひょいと病みつきました。容体がどうも普通の風邪ではない。熱があり、気分がたいへん悪い。そこで私の同窓生はみな医者ですから、誰かに診てもらったところ、これは腸チフスだ、岸の熱病が伝染したのだと言っているうちに、そのことが先生の耳に入りました。その時私は堂島の倉屋敷の長屋に寝ていましたが、先生が見舞いにお見えになって、いよいよ腸チフスに違いない、本当に治療しなければ、これは馬鹿にならない病気だとおっしゃいました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪修業・兄弟中津に帰るその中に丁度兄の年期と云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎に角に帰国が宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復して、兄の僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫れでは私は又大阪に参りましょうと云て出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能くて、大阪に着たその時に、私は中津屋敷の空長屋を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚て喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
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福翁自伝・大阪修業・緒方先生の深切夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹と診て遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞う。此の薬彼の薬と迷うて、後になって爾うでもなかったと云て又薬の加減をすると云うような訳けで、仕舞には何の療治をしたか訳けが分らぬようになると云うのは人情の免れぬ事であるから、病は診て遣るが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れと云て、先生の朋友、梶木町の内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰て、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚も手に及ばない事で、その師弟の間は自から公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授るに迷うと云うのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じ事で、その扱は実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べて見て大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い又思わずには居られません。ソレカラ唯今申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩い付て四、五日目から人事不省、凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生身体の強壮なその為めでしょう、恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄は僂麻質斯を煩て居り、私は熱病の大病後である、如何にも始末が付かない。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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福翁自伝・老余の半生・身体運動ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になるとが切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曾是綿糸縫人 と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
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