福翁自伝 / 幼少の時・兄弟五人中津の風に合わず
扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
書き下し
扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
現代語訳
さて、中津に帰ってから私が覚えていることを申しますと、私たち兄弟五人は、どうしても中津の人たちと混ざり合うことができませんでした。できないといっても深い理由は何もありません。従兄弟は大勢いて、父方の従兄弟も母方の従兄弟もいます。まあ何十人という従兄弟です。近所の子供もたくさんいるけれども、その連中とごちゃまぜになることはできない。第一、言葉がおかしい。私の兄弟はみな大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」というところを、私たちは「そうでおます」といった具合で、お互いにおかしいので、話はまず少なくなる。それから母はもともと中津生まれですが、長く大阪にいたので大阪の風に慣れて、子供の髪の結い方、着物の仕立て方、すべて大阪風で、大阪風の着物よりほかにない。ありあわせの着物を着せるので、自然と中津の風とは違ってしまう。着物が違い言葉が違うという以外には何も原因はないのですが、子供のことですから、人前に出るのが何となく気恥ずかしく思われて、自然と家に引っ込み、兄弟同士で遊んでいるという有様でした。
解説
この章句が説くこと
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