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福翁自伝 / 長崎遊学・諫早にて鉄屋と別る

それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壹岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。

新字:それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壱岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。

書き下し

それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壹岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。

現代語訳

それから、奥平の伝言や何かをすっかり手紙に書いてしまい、これは例の御隠居様に差し上げなければなりません。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で、諫早まで参りましたところ、その途中でふと江戸に行きたくなりましたから、これから江戸に参ります。ついては壹岐様からこれこれのご伝言で、お手紙はこれですから、お届け申し上げます」と丁寧に書いてやって、それから封をせずに渡された、すなわち大橋六助に宛てた手紙を本人に届けるために、私が手紙を書き添えて、「このとおり封をしないのはおかしい、こんな馬鹿なことはないが、このままお届け申し上げます。もとはと言えば自分のほうから呼び戻すように企んでおきながら、表向きに人を欺くというのは、卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くので、この手紙をご覧ください」というような具合に書いて、万事の用意はできて、鉄屋惣兵衛と一緒に長崎を出立して、諫早まで来ました。この間は七里あります。ちょうど夕方に着きましたが、たしか三月の中旬、月の明るい晩でした。「さて鉄屋、俺は長崎を出るときは中津に帰る所存だったが、これから中津に帰るのは嫌になった。貴様の荷物と一緒に、俺のこの葛籠もついでに持って帰ってくれ。俺はもう着替えが一、二枚あれば十分だ。これから下ノ関に出て大阪へ行って、それから江戸に行くのだ」というと、惣兵衛殿はあきれてしまい、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れないお坊ちゃんが一人で行くというのは」。「馬鹿をいうな、口があれば京に上る、長崎から江戸へ一人で行くのに何のことがあるか」。「けれども私は中津に帰ってお母さんに言いようがない」。「なあに構うものか、俺は死にも何もしないから、内のおっ母さんによろしくいってくれ、ただ江戸に参りましたといえばそれでわかる」。鉄屋も何ともいうことができません。「時に鉄屋、俺はこれから下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らない。貴様は諸方を歩くが、下ノ関に知っている船宿はないか」。「私の懇意な家で船場屋寿久右衛門という船宿があります、そこへお入りなされば宜しいでしょう」という。そもそもこのことをわざわざ鉄屋に聞かなければならないというのは、実はそのとき私の懐中に金がない。家からくれた金が一歩ほどあったか、そのほかにオランダの字引の訳鍵という本を売って、かき集めたところで二歩二朱か三朱しかありません。それで大阪まで行くには、どうしても船賃が足りないという見込みだから、そこでちょっと船宿の名を聞いておいて、それから鉄屋と別れて、諫早から丸木船という船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば、明日の朝には佐賀まで着くというので、その船に乗ったところ、波風もなく朝には佐賀に着き、佐賀から歩きましたが、案内もなければ何もなく、本当に一身で、道筋の村の名も知らず、宿々の順序も知らずに、ただ東の方に向かって、小倉にはどう行くかと道を聞いて、筑前を通り抜けて、たぶん太宰府の近所を通ったでしょうが、小倉には三日目に着きました。

解説

福沢は隠居宛ての手紙を丁寧に書きつつ、六助宛ての手紙には皮肉を添え、江戸行きの意思を明かします。諫早で同行の商人鉄屋に別れを告げ、荷物を預け、金は二歩二朱か三朱しかないまま、船宿の名だけ聞いて単身出発します。若い旅慣れない者が一人で行くのは無謀だと止められても、口があれば京に上ると言い切りました。資金も案内もない状態で動き出す大胆さと、必要な情報だけを短く聞き出す要領が同居しています。準備不足でも、前に進みながら道を探す姿勢です。

この章句が説くこと

諫早鉄屋惣兵衛江戸へ手元不如意単身船宿

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