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福翁自伝 / 長崎遊学・明石より上陸(1)

爾う云う不愉快な船中で、如何やら斯うやら十五日目に播州明石に着た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中のお供をしては際限がない。是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公は是れから大阪まで歩いて行く。就ては是迄の勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭が中々聞かない。「爾う旨くは行かぬ、一切勘定を払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持て居るから、「茲に着物が二枚ある、是れで賄の代位はあるだろう、外に書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預ければ宜いが、是れは挟して行かねばならぬ。何時でも宜しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払て遣るから取りに来いと云うも、船頭は頑張て承知しない。「中津屋敷は知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗て行きなさい。賄の代金は大阪で請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日掛ても構わぬ、途中から上ることは出来ぬと云う。此方は只管頼むと小さくなって訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請合うと先ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾う、いんごうな事を云うものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙す所存ではないように見受ける。若し騙したら乃公が払う、サアお上りなさいと云て、船頭も是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。

書き下し

爾う云う不愉快な船中で、如何やら斯うやら十五日目に播州明石に着た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中のお供をしては際限がない。是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公は是れから大阪まで歩いて行く。就ては是迄の勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭が中々聞かない。「爾う旨くは行かぬ、一切勘定を払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持て居るから、「茲に着物が二枚ある、是れで賄の代位はあるだろう、外に書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預ければ宜いが、是れは挟して行かねばならぬ。何時でも宜しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払て遣るから取りに来いと云うも、船頭は頑張て承知しない。「中津屋敷は知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗て行きなさい。賄の代金は大阪で請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日掛ても構わぬ、途中から上ることは出来ぬと云う。此方は只管頼むと小さくなって訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請合うと先ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾う、いんごうな事を云うものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙す所存ではないように見受ける。若し騙したら乃公が払う、サアお上りなさいと云て、船頭も是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。

現代語訳

そういう不愉快な船中で、どうにかこうにか十五日目に播州の明石に着きました。朝五つ時、今の八時頃で、明朝順風になれば船が出るという。けれどもこんな連中のお供をしていては際限がありません。「これから大阪までは何里か」と聞けば、十五里という。「よし、それなら俺はこれから大阪まで歩いて行く。ついてはこれまでの勘定は、大阪に着いたら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くから」というと、船頭がなかなか聞きません。「そううまくは行かない、一切勘定を払って行け」という。いわれても払う金は懐中にありません。そのとき私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持っていたので、「ここに着物が二枚ある、これで賄いの代くらいはあるだろう、ほかに書籍もあるが、これは何にもならない。この着物を売ればその程度の金にはなるではないか。大小を預ければいいが、これは差して行かなければならない。いつでもよろしい、船が大阪に着き次第に、中津屋敷で払ってやるから取りに来い」というけれども、船頭は頑張って承知しません。「中津屋敷は知っているが、お前さんは知らない人じゃ。何でも船に乗って行きなさい。賄いの代金は大阪で受け取るという約束がしてあるから、それはいい。何日かかっても構わない、途中から上がることはできない」という。こちらはひたすら頼むと小さくなって訳を言えば、船頭は何でも聞かないと強情を張って、だんだん声が大きくなる。喧嘩にもならず、実に当惑していたところに、同じ船に乗っていた下ノ関の商人風の男が出て来て、「俺が請け合う」とまず発言して、船頭に向かい、「これお前もそう、無理なことを言うものじゃない。賄い代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、お前たちを騙すつもりではないように見受ける。もし騙したら俺が払う、さあお上がりなさい」といって、船頭もこれで安心して無理もいわず、それから私はその下ノ関の男に厚く礼を述べて船を飛び出し、地獄に仏と心の中でこの男を拝みました。

解説

船中の十五日は不愉快続きでした。明石に着いた福沢は、船頭を相手に、着物二枚を抵当にして上陸を認めてほしいと頼みますが、聞き入れてもらえません。喧嘩にもならない窮地で、同じ船に乗っていた下ノ関の商人が、もし騙したら俺が払う、と請け合ってくれました。福沢はこの男を地獄に仏と拝んだと書きます。見知らぬ人の保証という善意が、その場を救いました。一方、福沢は着物という担保を提示して筋の通った交渉を試みており、頼みごとは誠意と筋の通し方で伝わると示します。助けてくれた人の恩は、のちに自分が返す番になります。

この章句が説くこと

明石船頭との交渉抵当下ノ関の商人地獄に仏善意

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