福翁自伝 / 幼少の時・門閥の不平
ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平で堪らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の間に門閥制度がチャンと定まって居て、その門閥の堅い事は啻に藩の公用に就てのみならず、今日私の交際上、小供の交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何なすって、斯うなすってと云えば、先方では貴様が爾う為やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない只小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何しても不平がなくては居られない。その癖今の貴様とか何とか云う上士族の子弟と学校に行て、読書会読と云うような事になれば、何時でも此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。夫れがその交際、朋友互に交って遊ぶ小供遊の間にも、ちゃんと門閥と云うものを持て横風至極だから、小供心に腹が立て堪らぬ。
書き下し
ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平で堪らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の間に門閥制度がチャンと定まって居て、その門閥の堅い事は啻に藩の公用に就てのみならず、今日私の交際上、小供の交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何なすって、斯うなすってと云えば、先方では貴様が爾う為やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない只小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何しても不平がなくては居られない。その癖今の貴様とか何とか云う上士族の子弟と学校に行て、読書会読と云うような事になれば、何時でも此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。夫れがその交際、朋友互に交って遊ぶ小供遊の間にも、ちゃんと門閥と云うものを持て横風至極だから、小供心に腹が立て堪らぬ。
現代語訳
それから私が幼少の時から中津にいて、いつも不満でたまらなかったというのは、無理もないことです。そもそも中津の藩風というものは、士族の間に門閥制度がちゃんと定まっていて、その門閥の堅いことは、藩の公用についてのみならず、今日の私の交際上、子供の交際に至るまで、貴賤上下の区別をなし、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かっては、まるで言葉が違います。私などが上士族に対して「あなたがどうなさって、こうなさって」といえば、先方では「貴様がそうしやって、こうしやれ」というような風で、万事その通りで、何でもないただ子供の戯れの遊びにも門閥が付いて回るから、どうしても不満がなくてはいられません。そのくせ今の貴様とかいう上士族の子弟と、学校に行って、読書や会読というようなことになれば、いつでもこちらが勝つ。学問ばかりでなく、腕力でも負けはしません。それがその交際、友達互いに交わって遊ぶ子供の遊びの間にも、ちゃんと門閥というものを持って横柄至極ですから、子供心に腹が立ってたまりません。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・維新の際に一身の進退素と私は小士族の家に生れ、その頃は封建時代の事で日本国中何れも同様、藩の制度は守旧一偏の有様で、藩士銘々の分限がチャント定まって、上士は上士、下士は下士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年経てもその分限は変らない。従て小士族の家に生れた者は、自から上流士族の者から常に軽蔑を受ける。人々の智愚賢不肖に拘わらず、上士は下士を目下に見下すと云う風が専ら行われて、私は少年の時からソレに就て如何にも不平で堪らない。
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福翁自伝・幼少の時・下執事の文字に叱かられる況して大人同士、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々喧ましいことで、私が覚えて居るが、或時私の兄が家老の処に手紙を遣て、少し学者風でその表書に何々様下執事と書いて遣たら大に叱られ、下執事とは何の事だ、御取次衆と認めて来いと云て、手紙を突返して来た。私は之を見ても側から独り立腹して泣たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何したって是れはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分るようになる中に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。能く書を読む男がある。固より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善くないとか何とかいろ/\不平を洩らして居るのを聞いて、私は始終ソレを止めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞が宜い、出なければ不平を云わぬが宜と、毎度止て居たことがあるが、是れはマア私の生付きの性質とでも云うようなものでしょう。
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福翁自伝・王政維新・門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む所がその不平の極は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を悪み、遂には人を忘れて唯その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の故を以て漫に威張るは男子の愧ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士相対して上士が横風である、私は之を見てその上士の傲慢無礼を憤ると同時に、心の中では思直して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張て居る、見苦しい奴だと却て気の毒に思うて、心中却て此方から軽蔑して居ました。私がその時老成人であるか又は仏者であったら、人道世教の為めに如何とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか云う説もあろうが、十歳以上十九か二十歳の少年にそんな六かしい奥ゆかしい考のあるべき筈はない。唯人間の殻威張は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思て居たから、夫れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に向て自分が軽蔑された丈けソレ丈け軽蔑して遣れば、所謂江戸の敵を長崎で討て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は下の方に向て大変丁寧にして居ました。
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福翁自伝・幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
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福翁自伝・幼少の時・兄弟五人中津の風に合わず扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
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福翁自伝・品行家風・莫逆の友なし経済の事は右の如くにして、私は私の流義を守て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又自分の一身の行状は如何であったか、家を成した後に家の有様は如何かと云うことに付て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨私の若い時は如何だと申すに、中津に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂莫逆の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云て私が偏窟者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌りの方であったが、本当を云うと表面ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都て無頓着で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣て家に帰て阿母さんに言告けると云うようなことは唯の一度もない。口先き計り達者で内実は無難無事な子でした。
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