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童子問 / 卷下

問。古今異端之敎。不知其幾多。孰爲深。孰爲淺。何爲大。何爲小。其間亦有稍近是者與。曰。自古著書立敎者。紛紛藉藉。不堪其衆。然不過三大坎。其不高不卑。平常不易。此爲一大坎。乃中庸之極。而聖人之宗旨也。高此一等。則爲虛無。老佛之學。是已。卑此一等。則爲功利。申韓商鞅之徒。是已。老佛以下。雖代異地殊。交出迭起。而不過此二端。假令百世之後。有異端者出。不因舊套。創倡新說。亦不能出於此二端。其他區區半上落下之徒。亦不足論。若趙孟靜林兆恩。乃近時小異端。然不過假三敎而爲名。故其學不至大譟。亦可笑也。

新字:問。古今異端之教。不知其幾多。孰為深。孰為浅。何為大。何為小。其間亦有稍近是者与。曰。自古著書立教者。紛紛藉藉。不堪其衆。然不過三大坎。其不高不卑。平常不易。此為一大坎。乃中庸之極。而聖人之宗旨也。高此一等。則為虚無。老仏之学。是已。卑此一等。則為功利。申韓商鞅之徒。是已。老仏以下。雖代異地殊。交出迭起。而不過此二端。仮令百世之後。有異端者出。不因旧套。創倡新説。亦不能出於此二端。其他区区半上落下之徒。亦不足論。若趙孟静林兆恩。乃近時小異端。然不過仮三教而為名。故其学不至大譟。亦可笑也。

書き下し

問ふ、古今異端の教へ、其の幾多なるを知らず。孰れか深しと為し、孰れか浅しと為す。何れか大と為し、何れか小と為す。其の間に亦稍是に近き者有りや、と。曰く、古より書を著し教へを立つる者、紛紛藉藉として、其の衆きに堪へず。然れども三大坎に過ぎず。其の高からず卑からず、平常にして易らざる、此れ一大坎たり。乃ち中庸の極にして、聖人の宗旨なり。此に高きこと一等なれば、則ち虚無と為る。老仏の学、是れのみ。此に卑きこと一等なれば、則ち功利と為る。申韓商鞅の徒、是れのみ。老仏以下、代異なり地殊なりて、交々出で迭ひに起こると雖も、此の二端に過ぎず。仮令百世の後、異端なる者出で、旧套に因らず、新説を創倡すとも、亦此の二端を出づること能はず。其の他区区たる半上落下の徒は、亦論ずるに足らず。趙孟静・林兆恩の若きは、乃ち近時の小異端なり。然れども三教を仮りて名と為すに過ぎず。故に其の学大いに譟がしきに至らず。亦笑ふべきなり。

現代語訳

問う。古今の異端の教えは数えきれない。どれが深くどれが浅いのか、どれが大きくどれが小さいのか。その中にもいくらか正しさに近いものはあるのか。答える。昔から書物を著して教えを立てた者は、入り乱れておびただしく、数えきれない。しかし三つの大きな区分を出ない。高すぎず低すぎず、平常で変わらないもの、これが一つの区分である。これこそ中庸の極みであり、聖人の根本の趣旨である。これより一段高くなれば虚無となる。老子や仏教の学がそれである。これより一段低くなれば功利となる。申不害・韓非・商鞅の一派がそれである。老仏以下、時代が異なり土地が違って、次々と現れ入れかわり起こっても、この二つの端を出ない。たとえ百世の後に異端の者が現れ、古い型によらず新説を唱えたとしても、やはりこの二つの端を出ることはできない。そのほかの中途半端な小者たちは論じるに足りない。趙孟静や林兆恩のような者は、近ごろの小さな異端である。しかし三教(儒・仏・道)の名を借りて看板にしているにすぎない。だからその学は大して騒がれるに至らない。これも笑うべきことである。

解説

仁斎は古今の思想を、高すぎも低すぎもしない「中庸」、一段高い「虚無」、一段低い「功利」の三つに整理する。老荘や仏教は高きに過ぎて現実を離れ、申不害・韓非・商鞅は低きに過ぎて利害の計算に落ちるという見取り図である。どれほど新しい説が出ても、この二つの偏りのどちらかに収まると仁斎は言い切る。三教を掲げた林兆恩らを笑うのも、看板を掛け替えただけで中心を欠くからだろう。新しい理論や流行の手法に触れたとき、それが現実離れの理想論か、目先の損得に偏っていないかを見分ける物差しとして、この三分法は今も使える。

この章句が説くこと

異端中庸道虚無功利老仏

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