童子問 / 卷下
問儒釋之所以分。曰。聖人欲與天下共同斯善。而不欲離乎天下而獨善其身。故曰。吾非斯人之徒與。而誰與。釋氏則不然。其言曰。天上天下。唯我獨尊。此其所以先與聖人異也。蓋釋氏欲離乎天下而獨善其身。故其始初用功夫處。不在通于天下。達于萬世。不可須臾離上。專就其一身生意見。爲生死念重。愛根難絕。心猿意馬。不受覊束。乍出乍入。或眞或妄。變現起滅。無可奈何。乃屏居山林。謝絕世故。坐禪面壁。硬以澄淸斯心爲事。及乎其修行既久。功夫既成。忽見天地萬物悉皆幻妄。山川城郭總現空相。獨此心孤明歷歷。萬刧無盡。自謂超脫三界。遂廢人事而不修。蔑天下而不顧。抗顏揚首。肆然談道。
新字:問儒釈之所以分。曰。聖人欲与天下共同斯善。而不欲離乎天下而独善其身。故曰。吾非斯人之徒与。而誰与。釈氏則不然。其言曰。天上天下。唯我独尊。此其所以先与聖人異也。蓋釈氏欲離乎天下而独善其身。故其始初用功夫処。不在通于天下。達于万世。不可須臾離上。専就其一身生意見。為生死念重。愛根難絶。心猿意馬。不受覊束。乍出乍入。或真或妄。変現起滅。無可奈何。乃屏居山林。謝絶世故。坐禅面壁。硬以澄清斯心為事。及乎其修行既久。功夫既成。忽見天地万物悉皆幻妄。山川城郭総現空相。独此心孤明歴歴。万刧無尽。自謂超脱三界。遂廃人事而不修。蔑天下而不顧。抗顔揚首。肆然談道。
書き下し
儒釈の分かるる所以を問ふ。曰く、聖人は天下と共に斯の善を同じくせんと欲して、天下を離れて独り其の身を善くするを欲せず。故に曰く、吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん、と。釈氏は則ち然らず。其の言に曰く、天上天下、唯我独尊、と。此れ其の先づ聖人と異なる所以なり。蓋し釈氏は天下を離れて独り其の身を善くせんと欲す。故に其の始初功夫を用ふる処、天下に通じ、万世に達し、須臾も離るべからざる上に在らず。専ら其の一身に就きて意見を生じ、生死の念重く、愛根絶ち難く、心猿意馬、羈束を受けず、乍ち出で乍ち入り、或いは真或いは妄、変現起滅して、奈何ともすべき無しと為す。乃ち山林に屏居し、世故を謝絶し、坐禅面壁して、硬く斯の心を澄清するを以て事と為す。其の修行既に久しく、功夫既に成るに及んでは、忽ち天地万物悉く皆幻妄にして、山川城郭総て空相を現じ、独り此の心のみ孤明歴歴として、万劫尽くること無きを見る。自ら三界を超脱すと謂ひ、遂に人事を廃して修めず、天下を蔑して顧みず、顔を抗げ首を揚げ、肆然として道を談ず。
現代語訳
儒教と仏教が分かれる理由を問うた。答える。聖人は天下の人々とともにこの善を同じくしようと願い、天下を離れて自分ひとりの身だけを善くしようとはしない。だから孔子は「私はこの人々の仲間とともにいるのでなければ、いったい誰とともにいようか」と言った。釈迦はそうではない。その言葉に「天上天下、唯我独尊」とある。これがまず聖人と異なる点である。思うに釈迦は天下を離れて独りその身を善くしようとする。だから最初に工夫を用いる所が、天下に通じ、万世に達し、片時も離れられない(人倫の)上にはない。もっぱら自分一身について考えを起こし、生死への思いが重く、愛着の根が断ちがたく、心は猿や馬のように騒いで束縛を受けず、ふと出てはふと入り、真であったり妄であったり、現れては消えて、どうしようもないものとみなす。そこで山林に引きこもり、世間の事柄を謝絶し、坐禅して壁に向かい、むりやりこの心を澄ませ清めることを務めとする。修行が長く積まれ、工夫が成就すると、たちまち天地万物はことごとく幻であり、山川や城郭はすべて空の相を現し、ただこの心だけが孤独に明らかにはっきりとして、永劫に尽きることがないと見る。自ら三界を超え出たと称し、ついに人の務めを捨てて修めず、天下を蔑んで顧みず、顔を上げ首をそびやかし、ほしいままに道を語るのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷上問ふ、伊川先生云ふ、「聖人は未だ嘗て易きを言ひて以て人を驕らしめず、亦未だ嘗て難きを言ひて以て人の進むを阻まず」と。此の語如何。曰く、聖人の言語は、皆其の自然に循ひて、未だ嘗て粃点せず、亦未だ嘗て作弄せず。若し未だ嘗て易きを言はず、亦未だ嘗て難きを言はずと曰はば、則ち是れ聖人言語を以て道を簸弄するなり。語に曰く、「誰か能く出づるに戸に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫き」と。又曰く、「仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る」と。又曰く、「未だ之を思はざるなり。夫れ何の遠きことか之有らん」と。孟子曰く、「道は邇きに在り、而るに諸を遠きに求む。事は易きに在り、而るに諸を難きに求む」と。皆其の近くして易きを言ふなり。学者の其の入り難きに苦しむ者は、皆道の実処を知らざるに由るなり。
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『慎思録』巻之三程子曰く、天地生物の気象は、見るべくして言ふべからず。善く此を観る者は、必ず道を知るなり、と。篤信窃かに謂ふ、易に曰く、天地の大徳を生と曰ふ、と。蓋し天地は別に心無く、別に事無し。独り物を生ずるを以て心と為し、且つ以て事と為すのみ。故に能く天地生物の理の四時に行はれ、万物に著はるるを見て、之を黙識する者有らば、即ち此れ道を知るなり。程子の言信ずべし。天地生物の理、人之を受けて以て心と為す。所謂仁なり。温和慈愛、便ち是れ天地生物の気象なり。
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『童子問』卷上問ふ、何をか人の外に道無しと謂ふと。曰く、人とは何ぞ。君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友なり。夫れ道は一のみ。君臣に在りては之を義と謂ひ、父子には之を親と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を叙と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。皆人に由りて顕はる。人無ければ則ち以て道を見ること無し。故に曰く、人の外に道無しと。何をか道の外に人無しと謂ふ。曰く、道とは何ぞ。仁なり、義なり、礼なり、智なり。人其の中に囿まれて、須臾も離るることを得ず。離るれば則ち人に非ざるなり。故に曰く、道の外に人無しと。凡そ天地の外・古今の遠きを説きて、人倫に資すること無く、天下国家の治に益すること無き者は、皆邪説の魁なり。設令宇宙の外に復た宇宙有りとも、苟も人其の間に生まるること有らば、必ず当に君臣父子夫婦の倫有りて、仁義礼智の道に循ふべし。故に曰く、人に由りて顕はる、人無ければ則ち以て道を見ること無しと。謹んで此の説を聴き、異説の惑はす所と為ること勿かれ。
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『童子問』卷中問ふ。喩を承く。論語は宇宙第一の書たり、而して仁は孔門第一の字たり、と。然るに大学のごときは、敬を以て要と為し、中庸は誠を以て主と為す。及び詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、一書各一書の綱領有り。如何。曰く、人道の仁義有るは、猶ほ天道の陰陽有るがごときなり。仁義を外にして、豈に復た道有らんや。而して仁の義を包むは、猶ほ陽の陰を統ぶるがごとし。故に孔門は仁を以て宗と為し、而して義を以て輔と為す。敬とは此を敬するなり。誠とは此を誠にするなり。詩の思ひ邪無き、書の中、易の時、皆然り。道は本多端無し。故に曰く、吾が道は一以て之を貫く、と。
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『童子問』卷上道とは何ぞ。父子に在りては之を親と謂ひ、君臣には之を義と謂ひ、夫婦には之を別と謂ひ、昆弟には之を序と謂ひ、朋友には之を信と謂ふ。天下古今の同じく然る所なり。諸子百家各其の道を以て道と為して、性に循ふと否とを論ぜず。異端為る所以なり。苟も人の性に循ひて、得て離るべからざれば、則ち道と為し、否ざれば則ち道に非ず。故に聖人の道は、性を離れて独立するに非ず、亦た性より出づと謂ふに非ざるなり。晦菴謂ふ、人物各其の性の自然に循へば、則ち日用の間、各当に行ふべきの路有らざること莫しと。是れ倒説なり。蓋し性とは、己に有るを以て言ひ、道とは、天下に達するを以て言ふ。易に曰く、人の道を立つ、曰く仁と義と、是れなり。故に人有れば則ち性有り、人無ければ則ち性無し。道とは、人有ると人無きとを待たず、本来自ら有るの物にして、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らざること無く、処として在らざること無し。豈に人物各其の性の自然に循ふことを待ちて、而る後に之有りと謂ふを容れんや。晦菴の所謂の若きは、則ち是れ性本にして道末、性先にして道後なり。豈に倒説に非ずや。
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『長短経』定名夫れ道なる者は、人の蹈む所なり。居りては為す所を知り、行きては之く所を知り、事えては乗ずる所を知り、動きては止まる所を知る。之を道と謂う。〔又た曰く、道なる者は、人の蹈む所にして、万物をして其の由る所を失わざらしむるを謂うなり。〕徳なる者は、人の得る所なり。人をして各々其の欲する所を得しむる、之を徳と謂う。仁なる者は、愛なり。利を致し害を除き、兼ねて愛して私無き、之を仁と謂う。〔又た曰く、仁なる者は、人の親しむ所にして、慈悲惻隠の心有りて、其の生成を遂げしむ。〕
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