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童子問 / 卷下

問。先儒謂。戚儉倶失中而不及。聖人不得已而救時之弊。若先儒之所謂。則非雖易論語。亦有不合於道者乎。曰。是失中字之義。中謂中間。所謂執其兩端。用其中於民。是也。今以一丈杖求其中間。子必竢及至五尺。而後謂之中。纔不及一分。便指爲非中。甚泥矣。大凡自四五尺至六七尺以內。皆是中間。凡把杖執中間近欄柄處爲便。若欲度至五尺處把之。則必失之過。聖人敎人儉戚。是將近衞柄處與人。不可謂失中。不可謂不得已而救時之弊也。若謂時中。又別是一義。去時字。則依舊只是中間。易道總是退一步法。與老子以弱爲强退爲進。夐別。

新字:問。先儒謂。戚倹倶失中而不及。聖人不得已而救時之弊。若先儒之所謂。則非雖易論語。亦有不合於道者乎。曰。是失中字之義。中謂中間。所謂執其両端。用其中於民。是也。今以一丈杖求其中間。子必竢及至五尺。而後謂之中。纔不及一分。便指為非中。甚泥矣。大凡自四五尺至六七尺以内。皆是中間。凡把杖執中間近欄柄処為便。若欲度至五尺処把之。則必失之過。聖人教人倹戚。是将近衛柄処与人。不可謂失中。不可謂不得已而救時之弊也。若謂時中。又別是一義。去時字。則依旧只是中間。易道総是退一歩法。与老子以弱為強退為進。夐別。

書き下し

問ふ、先儒謂ふ、戚と倹とは倶に中を失ひて及ばず、聖人已むことを得ずして時の弊を救ふと。若し先儒の謂ふ所のごとくならば、則ち論語を易しとすと雖も、亦道に合はざる者有るに非ずや。曰く、是れ中の字の義を失ふ。中は中間を謂ふ。所謂其の両端を執りて、其の中を民に用ふ、是れなり。今一丈の杖を以て其の中間を求むるに、子は必ず五尺に至るに及ぶを竢ちて、而る後に之を中と謂ひ、纔かに一分に及ばざれば、便ち指して中に非ずと為す。甚だ泥めり。大凡四五尺より六七尺に至る以内は、皆是れ中間なり。凡そ杖を把るに中間の欄柄に近き処を執るを便と為す。若し度りて五尺の処に至りて之を把らんと欲せば、則ち必ず之を過ぐるに失す。聖人人に倹と戚とを教ふるは、是れ柄に近き処を将て人に与ふるなり。中を失ふと謂ふべからず。已むことを得ずして時の弊を救ふと謂ふべからざるなり。若し時中と謂はば、又別に是れ一義なり。時の字を去れば、則ち旧に依つて只是れ中間なり。易道は総て是れ一歩を退くの法なり。老子の弱を以て強と為し、退くを進むと為すと、夐かに別なり。

現代語訳

問う。先儒(朱子)は「(喪における)哀戚と(礼における)倹約とは、どちらも中を失って及ばないものであり、聖人はやむをえず時代の弊害を救ったのだ」と言う。もし先儒の言うとおりなら、平易な論語であっても、道に合わないところがあることにならないか。答える。それは「中」の字の意味を取り違えている。中とは中間のことである。「その両端を執って、その中を民に用いる」というのがそれである。今、一丈(十尺)の杖でその中間を求めるとき、あなたは必ずちょうど五尺のところに来るのを待ってはじめて中と言い、わずか一分でも足りなければすぐに中ではないとするだろう。ひどくこだわりすぎである。おおよそ四、五尺から六、七尺までの範囲は、みな中間である。そもそも杖を握るには、中間のうち柄に近いところを持つのが便利である。もし測ってちょうど五尺のところを握ろうとすれば、必ず行き過ぎの誤りを犯す。聖人が人に倹約と哀戚を教えたのは、柄に近いところを持たせて人に渡したということである。中を失ったと言うべきではないし、やむをえず時代の弊害を救ったと言うべきでもない。「時中」というのは、また別の一義である。「時」の字を除けば、元どおりただ中間ということにすぎない。易の道はすべて一歩退く方法である。老子が弱さを強さとし、退くことを進むこととするのとは、はるかに異なる。

解説

論語の「礼は其の奢らんよりは寧ろ倹」「喪は其の易めんよりは寧ろ戚め」を、朱子の注は中を失った次善の策と解した。仁斎はこれに反対し、中とは寸分違わぬ一点ではなく幅のある中間だと説く。一丈の杖の真ん中をきっちり五尺で探すのは泥みすぎで、四尺から七尺はみな中であり、握るなら柄に近い側がよい。聖人が倹や戚を勧めたのは、その握りやすい側を人に手渡したのだという比喩は見事である。完璧な一点を狙うと必ず行き過ぎるという指摘は、目標設定や予算の配分にも通じる。迷ったら控えめな側に一歩寄せておくことが、結果として中を外さない知恵になる。

この章句が説くこと

中中庸倹礼易一歩退く

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