童子問 / 卷下
書以道政事。皆古先聖人平治天下之大經大法。而萬世靡能出其上者。其道皆人倫日用通行之典。亦傳之萬世。而無弊者也。故孔子祖述憲章之。而雖三墳五典。其磅礴廣大。不可爲萬世之典者。殫黜之。故今讀尙書者。雖非二典及文武誓誥。凡四代之書。孔子所定者。皆當依此意求之。世俗以虛無恬澹無爲自化爲至極。故反有平視尙書之意。不亦誤之甚乎。
新字:書以道政事。皆古先聖人平治天下之大経大法。而万世靡能出其上者。其道皆人倫日用通行之典。亦伝之万世。而無弊者也。故孔子祖述憲章之。而雖三墳五典。其磅礴広大。不可為万世之典者。殫黜之。故今読尚書者。雖非二典及文武誓誥。凡四代之書。孔子所定者。皆当依此意求之。世俗以虚無恬澹無為自化為至極。故反有平視尚書之意。不亦誤之甚乎。
書き下し
書は以て政事を道ふ。皆古先聖人の天下を平治するの大経大法にして、万世能く其の上に出づる靡き者なり。其の道は皆人倫日用通行の典にして、亦之を万世に伝へて弊無き者なり。故に孔子之を祖述憲章して、三墳五典と雖も、其の磅礴広大にして、万世の典と為すべからざる者は、之を殫黜す。故に今尚書を読む者、二典及び文武の誓誥に非ずと雖も、凡そ四代の書、孔子の定むる所の者は、皆当に此の意に依つて之を求むべし。世俗は虚無恬澹無為自化を以て至極と為す。故に反つて尚書を平視するの意有り。亦誤りの甚だしきならずや。
現代語訳
書経は政治のことを言い表すものである。いずれも古の聖人が天下を平らかに治めた大いなる常道・大いなる法であって、万世にこれを超えるものはない。その道はみな人倫日用に通用する規範であり、これもまた万世に伝えて弊害のないものである。だから孔子はこれを受け継いで手本とし、三墳五典のような古書であっても、果てしなく広大で万世の規範とできないものは、ことごとく退けた。それゆえ今尚書を読む者は、堯典・舜典や文王・武王の誓誥でなくとも、およそ虞・夏・殷・周四代の書で孔子の定めたものは、みなこの意によって読み解くべきである。世俗は虚無・恬淡・無為自然を至高のものとする。そのためかえって尚書を軽く見る気持ちがある。なんと甚だしい誤りではないか。
解説
この章句が説くこと
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『童子問』卷下問ふ、五経の理。曰く、五経は是れ宛然たる天地万物人情世変の図子のみ。天下の書、論説に非ざる靡し。唯六経のみ論説に属せずして、万理畢く具はり、変化方無く、取るに随つて在るに随ふ。之に順へば則ち治まり、之に逆へば則ち乱れ、之に従へば則ち存し、之に悖れば則ち亡ぶ。皆人をして思うて之を得しむ。論孟の章章句句各其の義有りて、他義を兼ぬること能はざるに比せざるなり。故に論語は宇宙第一の書たりと雖も、然れども猶有るべし。六経は有るべからず。其の故何ぞや。倘し世に孔子有らば、自ら当に論語の書有るべし。六経のごときは、則ち唐虞以来周末に至るまでの一世界有りて、其の間に又極治極乱の時、許多の人情世変備はるに非ざれば、則ち有るべからざるなり。孔子と雖も亦作ること能はず。此れ六経の有るべからざる所以なり。然れども本甚だしき異義無し。異義を求むれば、則ち是ならず。詩は民巷の歌謡、書は先王の政事、易は陰陽消長の変、春秋は魯史簡牘の文、本何の異義か有らん。但其の理自ら深遠なるのみ。古来六経に註する者、皆議論を作して之を解す。浅し。晋の陶潜、夏日に方つて北牕の下に高臥し、自ら以為へらく犠皇上世の人なりと。其の見固より高し。然れども猶北牕の涼を待つこと有り。論語に曰く、斯の民や、三代の直道にして行ふ所以なりと。苟も六経の理に邃ければ、則ち今日即ち唐虞三代の時、斯の身即ち唐虞三代の民にして、固より外に待つこと無し。余嘗て題壁の詩有りて云ふ、天空海濶小茅堂、四序悠悠として春色長し、笑殺す淵明卓識無きを、北牕何ぞ必ずしも犠皇を慕はんと。竊かに此の意を述ぶ。
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『童子問』卷下問ふ、伏犧・神農・黄帝・少昊・顓頊・高辛は、皆上古の聖神なり。夫子奚を以て取らざるや、と。曰く、夫子は其の之を取らざるの意を明言せず。今得て詳らかにすべからず。孟子曰く、堯舜の道は孝弟のみ、と。又曰く、規矩は方員の至りなり。聖人は人倫の至りなり。君たらんと欲せば君の道を尽くし、臣たらんと欲せば臣の道を尽くす。二者は皆堯舜に法るのみ、と。又曰く、舜は庶物に明らかにして、人倫に察らかなり。仁義に由りて行ふ。仁義を行ふに非ざるなり、と。是に由りて之を観れば、三皇三帝の道、豈に其れ人倫日用の道に宜しからざる者有りて、之を黜けたるか。漢の孔安国の尚書序に曰く、伏羲・神農・黄帝の書、之を三墳と謂ふ、大道を言ふなり。少昊・顓頊・高辛・唐虞の書、之を五典と謂ふ、常道を言ふなり。孔子墳典を討論して、断つに唐虞よりし、以下周に訖る、と。其の大道を言ふと曰ふを観れば、則ち三皇の道は、専ら磅礴広大・無為自化を尚びて、実に人倫常道に宜しからざる者有ること、知るべし。吁、天下豈に常道より大なる者有らんや。其れ常道の上に出でて、別に大道有りと為せば、則ち其の道豈に磅礴広大にして、人倫日用に宜しからず、而して堯舜の道と差異有る者に非ずや。磅礴広大・無為自化の道は、乃ち方外高達の士の必ず藉口して以て其の説を託する所にして、邪説暴行の由りて興る所なり。然らば則ち夫子の取らざるや、其の意知るべし。
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『童子問』卷下問ふ、各経の大意。曰く、韓子の原道、詩・書・易・春秋を以て列と為し、礼記を数へず。其の見卓なり。当に韓子に従ひて、詩・書・易・春秋を以て本経と為すべし。而して聖門専ら詩書を以て教と為す者は、蓋し二経の旨、平易にして情に近く、之を万世に伝へて弊無き者なればなり。詩は以て情性を道ふ。天下の人衆しと雖も、古今の生窮まり無しと雖も、而も其の情為る所以の者を原ぬれば、則ち三百篇の外に出づること無き者なり。之に順へば則ち治まり、之に逆へば則ち乱る。故に先王之を保ちて傷ること無く、之を愛して断つこと勿し。其の能く数百年の宗社を保ちて、子孫猶王家に賓たる所以の者は、此れを以てなり。此れを知らざれば、則ち以て天下国家を治むること莫し。申商の徒、是れのみ。此れに由らざれば、則ち以て教を立つること莫し。仏老の学、是れのみ。詩の学ばざるべからざること、此くのごとし。且つ古書の詩を引く者、多く章を断ちて義を取る。蓋し古人の詩を用ふるの通法なり。此れも亦詩を読む者の当に知るべき所なり。
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『童子問』卷下問ふ、予平生専ら力を経を治むるに用ひて、史漢通鑑等の書に於ては、未だ嘗て一たびも其の間に目を過ぎらず。或いは必ず須らく史を読むべしと謂ひ、或いは既に経を明らかにせば何ぞ必ずしも史を読まんと謂ふ。如何、と。曰く、史は治乱得失の林なり。読まざるべからず。詩・書・春秋は、皆古の聖人の史なり。故に経史と称す。苟も史書を読まざれば、則ち略々道理に通暁することを得と雖も、然も其の智局促寡陋にして、反つて意思条暢を欠く。譬へば則ち人遐陬僻壌に生長して、通都大邑に走り、賢士大夫の間に周旋して、風俗の美、人物の雅なる者を観ざれば、郷俗の習ひ、終身除かれず、其の智も亦膚浅隘陋にして、動もすれば措置を失ふがごとし。故に語孟詩書既に通ずるの後は、必ず史を読まざるべからず。多きを貪ること勿かれ。強記を事とすること勿かれ。但古今の大治乱・大機会・大成敗、及び賢人君子の讜論懿行に於ては、須らく歴歴として記取すべし。
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『童子問』卷中問ふ。近時諸儒の経済の書も、亦以て王道を発明するに足るか。曰く、其の要を知る者は、言必ず約なり。其の言多き者は、必ず要を知らず。所謂要言煩ならず、是れなり。馬氏の通考、丘氏の衍義補、馮氏の類編、章氏の図書編のごとき、其の書皆数百巻、此れ其の適に王道を識らざる所以なり。大学の治国平天下の章、中庸の哀公問政の章、其の言皆数百字に過ぎずして、王道の旨包括して遺す無し。其の要を得ればなり。孟子一部、其の王道を論ずる、横説竪説、千変万化、皆一の仁の字より紬繹し来たる。約にして尽くすと謂ふべし。実に堯舜孔子の道を知る者に非ずんば、豈に能く然らんや。苟も孟子を読みて、王道を識らずんば、所謂多しと雖も亦奚を以て為さんといふ者なり。
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『童子問』卷上問ふ、従来皆論語を以て、徒らに平易近情・意味親切と為して、未だ其の広大甚深にして、此の如く知り難きことを知らざるなり。冀はくは申ねて審喩を垂れよと。曰く、論語の書は、聖人大中至正の心を以て、大中至正の道を説く。故に唯だ大中至正の人のみ能く之を知る。子必ず難知難行・高遠にして及ぶべからざる者を以て至道と為して、易知易行・平正親切なる者の、却つて是れ万世不易・天下極至の理なることを知らず。蓋し難知難行・高遠にして及ぶべからざるの説は、乃ち異端邪説にして、易知易行・平正親切なる者は、便ち是れ堯舜の道にして、孔子立教の本原、論語の宗旨なり。昔在、孔子古今を旁観し、群聖を歴選して、特に堯舜を祖述し、文武を憲章し、尽く夫の難知難行・磅礴広大にして窺測すべからざるの説を黜けて、其の易知易行・万世不易の道を立て、以て生民の極と為し、之を門人に伝へ、之を後世に詔ぐ。
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