童子問 / 卷中
問張子西銘。曰。此反欲施之用者也。民吾同胞一句。雖如甚過高。然下面大君者吾父母宗子以。句句有落著。不比程語甚大無形影。不可不體認。
新字:問張子西銘。曰。此反欲施之用者也。民吾同胞一句。雖如甚過高。然下面大君者吾父母宗子以。句句有落著。不比程語甚大無形影。不可不体認。
書き下し
張子の西銘を問ふ。曰く、此れ反つて之を用に施さんと欲する者なり。民は吾が同胞の一句、甚だ高きに過ぐるが如しと雖も、然れども下面の大君は吾が父母の宗子以て、句句落著有り。程語の甚だ大にして形影無きに比せず。体認せざるべからず。
現代語訳
張横渠の『西銘』について問うた。答えていう。これは逆に、実際に用いようとするものである。「民は私の同胞である」という一句は、はなはだ高きに過ぎるように見えるが、その下の「大君は私の父母の宗子(嫡男)である」以下は、一句一句に落ち着くところがある。程子の言葉がはなはだ大きくて形も影もないのとは比べものにならない。身をもって会得しなければならない。
解説
前章で程子の万物一体の語を退けた仁斎は、張横渠の『西銘』を逆に評価する。「民は吾が同胞」の一句は高すぎるように見えるが、続く「大君は吾が父母の宗子」以下は、一句ずつ具体的な人倫に落ち着き、実際に用いようとする言葉だからである。程子の語が大きすぎて形も影もないのとは違うという。同じ宋学でも、日常の人間関係に着地するかどうかで評価を分けるところに、仁斎の判断基準がはっきり見える。理念を掲げるなら、それを日々の具体的な関係にまで落とし込めるかどうかが、言葉の値打ちを決めるのである。
この章句が説くこと
西銘仁人倫体認実践張横渠
関連する章句
-
『童子問』卷中問ふ、程子曰く、仁者は天地万物を以て一体と為す。己に非ざる莫し。認め得て己と為さば、何の至らざる所かあらんと。此の語如何。曰く、此の理有り。然れども之を用に施し難し。博く民に施して、能く衆を済ふ有り、堯舜も其れ猶ほ諸を病めり。則ち藉令認め得て己と為すとも、豈に能く至ることを得んや。故に口に言ふべくして、身に行ふべからざる者は、君子道はず。墨子は天下を兼愛するを以て道と為し、仏氏は三界の衆生を以て己の一子と為す。皆口に言ふべくして、身に行ふべからざる者なり。高論多説は、皆道に益無し。言はざるを以て是と為す。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「仁なる者は、人なり。合せて之を言えば、道なり。」
-
論語・雍也篇子貢曰く、「如し博く民に施して能く衆を済うこと有らば、何如。仁と謂う可きか。」子曰く、「何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂う可きのみ。」
-
論語・衛霊公篇子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は、吾蹈みて死する者を見たり。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。
-
論語・顔淵篇顔淵、仁を問う。子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」顔淵曰く、「請う、其の目を問わん。」子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」顔淵曰く、「回不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん。」
-
『近思録』巻1 道体医書に「手足の痿痺を不仁と為す」と言う。この言、最も善く状を名づく。仁者は天地万物を以て一体と為し、己に非ざるは莫し。認め得て己と為さば、何の至らざる所あらん。もし諸れを己に有たざれば、自ら己と相い干せず。手足の不仁なるが如く、気すでに貫かざれば、皆な己に属せず。故に博く施し衆を済うは、乃ち聖の功用なり。仁は至って言い難し。故にただ「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂うべきのみ」と曰う。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る