童子問 / 卷中
問。先生釋易乾卦亨字曰。有通而無塞。亦有生而無死。有動而無靜之意。曰然。天地之間。物各無不足之理。爲有通而無塞也。日煜乎晝。月煜乎夜。水流而不已。物生而不窮。若人之一身。有耳以受萬物之聲。目以辨萬物之色。鼻以嗅萬物之臭。口以知萬物之味。其於飮食。齒舌以噬嗑之。咽喉以呑嚥之。三焦以通之。膀胱以瀉之。非惟人爲然。物亦然。凡跂行喙息翾飛蠕動之微。皆各有其用。用各相足。失於彼則得於此。失於此則得於彼。在物各無不足之患。造化之工。亦何巧哉。爲有通而無塞也。易曰。品物流形。是也。流卽流通之意。
新字:問。先生釈易乾卦亨字曰。有通而無塞。亦有生而無死。有動而無静之意。曰然。天地之間。物各無不足之理。為有通而無塞也。日煜乎昼。月煜乎夜。水流而不已。物生而不窮。若人之一身。有耳以受万物之声。目以弁万物之色。鼻以嗅万物之臭。口以知万物之味。其於飲食。歯舌以噬嗑之。咽喉以呑嚥之。三焦以通之。膀胱以瀉之。非惟人為然。物亦然。凡跂行喙息翾飛蠕動之微。皆各有其用。用各相足。失於彼則得於此。失於此則得於彼。在物各無不足之患。造化之工。亦何巧哉。為有通而無塞也。易曰。品物流形。是也。流即流通之意。
書き下し
問ふ、先生易の乾卦の亨の字を釈して曰く、通有りて塞無しと。亦生有りて死無く、動有りて静無きの意か。曰く、然り。天地の間、物各々足らざるの理無し。通有りて塞無きが為なり。日は昼に煜き、月は夜に煜き、水は流れて已まず、物は生じて窮まらず。人の一身の若き、耳有りて以て万物の声を受け、目以て万物の色を弁じ、鼻以て万物の臭ひを嗅ぎ、口以て万物の味を知る。其の飲食に於ける、歯舌以て之を噬嗑し、咽喉以て之を呑嚥し、三焦以て之を通じ、膀胱以て之を瀉す。惟だ人のみ然りと為すに非ず、物も亦然り。凡そ跂行喙息、翾飛蠕動の微も、皆各々其の用有り、用各々相足る。彼に失へば則ち此に得、此に失へば則ち彼に得て、物に在りて各々足らざるの患ひ無し。造化の工、亦何ぞ巧みなるかな。通有りて塞無きが為なり。易に曰く、品物形を流くと。是れなり。流は即ち流通の意なり。
現代語訳
問う。先生は『易』の乾卦の「亨」の字を解釈して「通じることがあって塞がることがない」と言った。これも「生があって死がなく、動があって静がない」という意味か。答えていう。そうである。天地の間には、物がそれぞれ足りないという理はない。通じることがあって塞がることがないからである。日は昼に輝き、月は夜に輝き、水は流れてやまず、物は生じて窮まらない。人の一身でいえば、耳があって万物の声を受け、目は万物の色を見分け、鼻は万物の匂いを嗅ぎ、口は万物の味を知る。飲食においては、歯と舌が噛み合わせ、喉が飲み下し、三焦が通わせ、膀胱が排出する。ただ人だけがそうなのではなく、物もまたそうである。およそ足で這うもの、口で息をするもの、ひらひら飛ぶもの、うごめくものといった微小な生きものも、みなそれぞれ働きがあり、働きは互いに補い合っている。あちらで欠ければこちらで得、こちらで欠ければあちらで得て、物にはそれぞれ足りないという憂いがない。造化のはたらきは、なんと巧みなことか。通じることがあって塞がることがないからである。『易』に「品物、形を流く」とあるのがこれである。「流」とはすなわち流れ通じるという意味である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷中問ふ、理を以て学問の本原と為せば、則ち自ら異端に流入す。其の旨如何。曰く、是れ爾の知る所に非ざるなり。学問は其の本づく所の者如何を視るのみ。本づく所少しく差へば、邪正相反す。聖人は天地を以て活物と為し、異端は天地を以て死物と為す。此の処一たび差へば、千里の繆りなり。蓋し天の活物為る所以の者は、其の一元の気有るを以てなり。一元の気は、猶ほ人の元陽有るがごとし。飲食言語、視聴動作、終身息むこと無きは、正に其の元陽有るが為なり。若し元陽一たび絶ゆれば、忽ち異物と為りて、木石と異なること無し。唯だ天地は一大活物、物を生じて物に生ぜられず、悠久無窮にして、人物の生死有るに比せざるなり。夫れ太虚無くんば、則ち已む。太虚有れば、則ち斯の気無きこと能はず。斯の気や、既に生ずる所無く、亦生ぜざる所無し。万古独立し、攧撲すれども破れず。豈に虚無を以て之を目することを容れんや。故に曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。聖人の天を論ずる、此に至りて極まる。此より以上、更に一層の理を説かず。漢儒太極を以て一元気と為すは、是なり。此れ是れ千古不伝の秘、大易の天機を露洩する者なり。明らかに之を言はんと欲すれば、則ち義解に落つ。言はざらんと欲すれば、則ち亦惜しむべし。子意を以て之を逆へて、可なり。
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『童子問』卷中問ふ、先生謂ふ、天地は一大活物、理の字を以て之を尽くすべからずと。即ち字義に所謂生有りて死無く、聚有りて散無し、生に一なるが故なりの理か。曰く、然り。凡そ天地の間は、皆一理のみ。動有りて静無く、善有りて悪無し。蓋し静は動の止、悪は善の変なり。善は生の類、悪は死の類なり。両者相対して並び生ずるに非ず。皆生に一なるが故なり。凡そ生ある者は動かざること能はず。惟だ死者にして後に其の真の静を見るなり。其の生くるや、昼は動きて夜は静かなり。然れども熟睡の中と雖も、夢無きこと能はず。鼻息の呼吸に及びては、昼夜の別無し。手足頭面、覚えずして自ら動揺す。是れ皆其の動く処なり。字義に所謂死は生の終はり、散は聚の尽くるなり、是れなり。之を天地に験すれば、亦益々信に然り。日月星辰、東に升り西に没し、昼夜旋転して、一息も機を停むること無し。日月相推して、明生じ、寒暑相推して、歳成る。天地日月、皆斯の気に乗じて行かざるは莫し。走馬灯の然るが若し。兵卒輿馬、火気に随ひて往来駆逐し、旋りて已まざるなり。流水の物為るや、昼夜に亘りて舎かず。艸木の生有るや、隆冬と雖も亦花有り。皆動有りて静無きが為なり。善有りて悪無きも、亦然り。人の是の四端有るや、猶ほ其の身の四体有るがごとし。天下皆然り。然れども適々生有りて耳目口鼻無き者は、之を不成人と謂ふ。其の成人ならざるを以てなり。故に曰く、惻隠羞悪辞譲是非の心無き者は、人に非ずと。所謂悪は善の変にして、相対して並び生ずるに非ず、其の理亦彰然たらずや。故に伏犠の目に死物無く、孟軻の目に不善の人無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らん。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段仁とも云ふ。総ていへば一物なり。乾は元亨利貞といふが如し。乾は理なり、元亨利貞は命なり、体用の謂なり。文字を離れて察せよ。理と命と名は二つあれども、一なることを知るべし。譬へば川と淵との如し。流るる所にては川といひ、溜る所にては淵と云ふ。理は淵の如く、命は川の如し。動静有りて一なり。公伯寮、子路を季孫に愬ふ。子曰く、道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。孟子曰く、命に非ざるは莫しと。孔子孟子ともに、道の行はるるも廃るも、治乱ともに、皆命なりとのたまへば、命は天の行はるる総名なり。理は其の体なること決せり。昔者聖人の易を作るや、将に以て性命の理に順はんとす。是を以て天の道を立てて陰と陽と曰ひ、地の道を立てて剛と柔と曰ひ、人の道を立てて仁と義と曰ふ。三才を兼ねて之を両にす。
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易経・繋辞下子曰く、「乾坤は其れ易の門か。乾は陽物なり、坤は陰物なり。陰陽徳を合わせて、剛柔体有り。以て天地の撰を体し、以て神明の徳に通ず。其の名を称すること雑にして越えず。其の類を稽うるに、其れ衰世の意か」と。夫れ易は、往を彰らかにして来を察し、顕を微にして幽を闡く。開きて名に当て、物を弁じ言を正し、辞を断ずれば則ち備わる。其の名を称すること小にして、其の類を取ること大なり。其の旨は遠く、其の辞は文なり。其の言は曲にして中り、其の事は肆にして隠る。貳に因りて以て民の行を済し、以て失得の報を明らかにす。
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『童子問』卷中問ふ、吾之を朱子に聞く。曰く、理に於て所以然と所当然との異有り。所以然とは、即ち所当然の本、而して所当然とは、便ち所以然の発なり。故に曰く、陰陽は自ら形よりして下の器なり、太極は自ら形よりして上の道なりと。今先生の説く所は、皆所当然の事にして、其の所以然の本に於ては、則ち未だ之に及ばず。用有りて体無し。恐らくは浅近に過ぐること無きを得んや。曰く、所謂所以然の理とは、人の人為る所以、物の物為る所以、陰陽の往来消長する所以の理を謂ふに非ずや。夫れ陰陽は固より道に非ず。一陰一陽往来して已まざる者、即ち是れ道なり。陰陽往来して、天道成る。剛柔相済して、地道成る。仁義相須ちて、人道成る。天の道は、陰陽に尽き、地の道は、剛柔に尽き、人の道は、仁義に尽く。故に易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふと。又曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。古先聖人の天道を論ずる所以の者、此に至りて極まり、更に此の上面に於て復た一語を加へず。所謂太極と云ふ者も、亦此の一元気を斥して言ふのみ。若し此の上面に於て、其の所以然の理を求むれば、則ち是れ向に所謂無物の地に就きて物を求むるに非ずや。故に後世の所謂無極太極の理は、畢竟天地本無の理にして、聖人の言はざる所なり。之を袪けて可なり。
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