都鄙問答 / 卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段
仁トモ云、摠テイヘバ一物ナリ、乾ハ元亨利貞トイフガ如シ、乾ハ理ナリ、元亨利貞ハ命ナリ、體用ノ謂ナリ、文字ヲ離レテ察ヨ、理ト命ト名ハ二ッアレドモ、一ナルコトヲ知ルベシ、譬ヘバ川ト淵トノ如シ、流ルヽ所ニテハ川トイヽ、溜ル所ニテハ淵ト云、理ハ淵ノ如ク、命ハ川ノ如シ、動靜有テ一ナリ、公伯寮、子路季孫愬、子曰、道之將行也與、命也、道之將廢也、命也、孟子曰、莫非命ト、孔子孟子トモニ、道ノ行ルヽモ廢モ、治亂トモニ、皆命ナリトノ玉ヘバ、命ハ天ノ行ルヽ總名ナリ、理ハ其體ナルコト決セリ、昔者聖人之作易、將以順性命之理、是以立天之道、曰陰與陽、立地之道、曰剛與柔、立人之道、曰仁與義、兼三才而兩之、
新字:仁トモ云、摠テイヘバ一物ナリ、乾ハ元亨利貞トイフガ如シ、乾ハ理ナリ、元亨利貞ハ命ナリ、体用ノ謂ナリ、文字ヲ離レテ察ヨ、理ト命ト名ハ二ッアレドモ、一ナルコトヲ知ルベシ、譬ヘバ川ト淵トノ如シ、流ルヽ所ニテハ川トイヽ、溜ル所ニテハ淵ト云、理ハ淵ノ如ク、命ハ川ノ如シ、動静有テ一ナリ、公伯寮、子路季孫愬、子曰、道之将行也与、命也、道之将廃也、命也、孟子曰、莫非命ト、孔子孟子トモニ、道ノ行ルヽモ廃モ、治乱トモニ、皆命ナリトノ玉ヘバ、命ハ天ノ行ルヽ総名ナリ、理ハ其体ナルコト決セリ、昔者聖人之作易、将以順性命之理、是以立天之道、曰陰与陽、立地之道、曰剛与柔、立人之道、曰仁与義、兼三才而両之、
書き下し
仁とも云ふ。総ていへば一物なり。乾は元亨利貞といふが如し。乾は理なり、元亨利貞は命なり、体用の謂なり。文字を離れて察せよ。理と命と名は二つあれども、一なることを知るべし。譬へば川と淵との如し。流るる所にては川といひ、溜る所にては淵と云ふ。理は淵の如く、命は川の如し。動静有りて一なり。公伯寮、子路を季孫に愬ふ。子曰く、道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。孟子曰く、命に非ざるは莫しと。孔子孟子ともに、道の行はるるも廃るも、治乱ともに、皆命なりとのたまへば、命は天の行はるる総名なり。理は其の体なること決せり。昔者聖人の易を作るや、将に以て性命の理に順はんとす。是を以て天の道を立てて陰と陽と曰ひ、地の道を立てて剛と柔と曰ひ、人の道を立てて仁と義と曰ふ。三才を兼ねて之を両にす。
現代語訳
「仁とも呼ぶのです。まとめて言えば一つのものです。乾には元・亨・利・貞があると言うようなものです。乾は理であり、元亨利貞は命であり、本体と働きの関係です。文字を離れて察してください。理と命は名は二つでも、一つであることを知るべきです。たとえば川と淵のようなものです。流れているところを川と言い、溜まっているところを淵と言う。理は淵のように、命は川のようです。動と静の違いがあって、しかも一つです。公伯寮が子路のことを季孫に讒言したとき、孔子は『道が行われるのも命、道が廃れるのも命だ』と言いました。孟子は『命でないものはない』と言いました。孔子も孟子も、道が行われるのも廃れるのも、治まるのも乱れるのも、みな命だと言うのですから、命とは天の働きの総称であり、理はその本体であることがはっきりします。昔、聖人が易を作ったのは、性命の理に従うためでした。そこで天の道を陰と陽、地の道を剛と柔、人の道を仁と義と立て、天地人の三才を兼ねてそれぞれを二つにしたのです。」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
-
『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
-
『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
-
『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
-
『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
-
『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。