都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
萬物生生シテ古今違ハズ、其生々ヲ繼物ヲ善ト云、分テイハヾ、天ハ形ナフシテ心ノ如シ、地ハ形有テ物ノ如シ、其生々スル所ハ活物ノ如シ、無心ナル所ハ死物ノ如シ、天地ハ、死活ノ二ヲ兼タル物ナリ、死活ノ二ヲ兼スブルユヘニ、萬物ノ體トナル、其物ヲ暫ク名ヅケテ、理トモ性トモ善トモ云、然ルニ私意ヲ用ユル者ハ、天地ハ活物ナリト、一方ヲ知テ、死活ヲ攝テ、一理ナルコトヲ不知、因テ害ヲナスコト甚シ、是故ニ、孔子攻乎異端斯害也已トノ玉フコトナリ、天地ヲ、人ノ上ニテイハヾ、心ハ虛ニシテ天ナリ、形ハフサガツテ地ナリ、呼吸ハ陰陽ナリ、コレヲ繼者ハ善ナリ、用ヲ爲所ヲ主ル體ハ性ナリ、是ヲ以テ見ヨ、人ハ全體一箇ノ小天地ナリ、我モ一箇ノ天地ト知ラバ、何ニ不足ノ有ベキヤ、告子ハ是ヲ不知、生滅ニアヅカル思慮ヲ以テ、我性ト思、思フ所ハ性ニ非ズ、イカントナレバ、思慮ナキ天理ニ異ルユヘナリ、此味ヒヲ不知者ハ、天道ニ不合ユヘニ異端ト云、渾然タル一理ノ性ニ至レル孟子ニハ異ル所ナリ、
新字:万物生生シテ古今違ハズ、其生々ヲ継物ヲ善ト云、分テイハヾ、天ハ形ナフシテ心ノ如シ、地ハ形有テ物ノ如シ、其生々スル所ハ活物ノ如シ、無心ナル所ハ死物ノ如シ、天地ハ、死活ノ二ヲ兼タル物ナリ、死活ノ二ヲ兼スブルユヘニ、万物ノ体トナル、其物ヲ暫ク名ヅケテ、理トモ性トモ善トモ云、然ルニ私意ヲ用ユル者ハ、天地ハ活物ナリト、一方ヲ知テ、死活ヲ摂テ、一理ナルコトヲ不知、因テ害ヲナスコト甚シ、是故ニ、孔子攻乎異端斯害也已トノ玉フコトナリ、天地ヲ、人ノ上ニテイハヾ、心ハ虚ニシテ天ナリ、形ハフサガツテ地ナリ、呼吸ハ陰陽ナリ、コレヲ継者ハ善ナリ、用ヲ為所ヲ主ル体ハ性ナリ、是ヲ以テ見ヨ、人ハ全体一箇ノ小天地ナリ、我モ一箇ノ天地ト知ラバ、何ニ不足ノ有ベキヤ、告子ハ是ヲ不知、生滅ニアヅカル思慮ヲ以テ、我性ト思、思フ所ハ性ニ非ズ、イカントナレバ、思慮ナキ天理ニ異ルユヘナリ、此味ヒヲ不知者ハ、天道ニ不合ユヘニ異端ト云、渾然タル一理ノ性ニ至レル孟子ニハ異ル所ナリ、
書き下し
万物生生して古今違はず。其生々を継物を善と云。分ていはゞ、天は形なふして心の如し、地は形有て物の如し。其生々する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し。天地は、死活の二を兼たる物なり。死活の二を兼すぶるゆへに、万物の体となる。其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。然るに私意を用ゆる者は、天地は活物なりと、一方を知て、死活を摂て、一理なることを知らず。因て害をなすこと甚し。是故に、孔子、異端を攻むるは斯れ害あるのみとの玉ふことなり。天地を、人の上にていはゞ、心は虚にして天なり、形はふさがつて地なり、呼吸は陰陽なり、これを継者は善なり、用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ、人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば、何に不足の有べきや。告子は是を知らず、生滅にあづかる思慮を以て、我性と思。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば、思慮なき天理に異るゆへなり。此味ひを知らざる者は、天道に合はざるゆへに異端と云。渾然たる一理の性に至れる孟子には異る所なり。
現代語訳
万物は生まれ育って、昔も今も違いません。その生まれ育つはたらきを継ぐものを善と言います。分けて言えば、天は形がなくて心のようであり、地は形があって物のようです。生まれ育つところは生き物のようであり、無心なところは死物のようです。天地は、死と活の二つを兼ねたものです。死と活の二つを兼ね統べているので、万物の本体となります。そのものを仮に名づけて、理とも性とも善とも言います。ところが私意を用いる者は、天地は生き物だと一方だけを知って、死と活を包んで一つの理であることを知りません。だから害をなすことがはなはだしい。それで孔子は『異端を学ぶのは害があるばかりだ』とおっしゃったのです。天地を人の上で言えば、心は虚であって天、体はふさがっていて地、呼吸は陰陽、これを継ぐものが善、はたらきをつかさどる本体が性です。これによって見なさい。人は全体が一つの小さな天地です。自分も一つの天地だと知れば、何の不足がありましょう。告子はこれを知らず、生まれては消える思慮を自分の性だと思いました。思うところは性ではありません。なぜなら、思慮のない天の理とは異なるからです。この味わいを知らない者は天の道に合わないので異端と言います。渾然とした一つの理である性に至った孟子とは、異なるところです。
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、是も分がたし。答、其口と鼻との息は、直に天地の陰陽なり。天地に吐て天地に吸、其吸と吐とを、暫くも止め置れ候や。曰く、止ること能はず。答、呼吸は天地の陰陽にして、汝が息には非ず。因て汝も、天地の陰陽と一致にならざれば、忽に死するなり。陰陽の外に、汝が命なきこと明白なり。吸息は陰なり、吐息は陽なり。之を継ぐ者は善なり。身の動も静なるも、天地の陰陽なり。易と何ぞ替ことあらん。孔子は、天地を以て、道の体を説明し玉ふ。孟子は、人を以て道の体を説明し玉ふ。天人一なれば、道も亦一なり。周子曰く、五行は一陰陽なり、陰陽は一太極なり、太極は本無極なりと。此無極を一とやいはん二とやいはん。己に実知せずば、何を以て道を説ん。
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