童子問 / 卷上
問。朱子以謂。子文文子之不得爲仁。是不能當理而無私心。如何。曰。不然。藉令二子行事當理而無私心。亦只是忠與淸耳。若管仲。雖未見其事全當理。而心果無私。然夫子稱其仁者。葢以民受其賜也。以當理而無私心解仁。是所謂不得其說。從而爲之辭者。而去仁之義。益遠矣。若如其說。則不唯不得爲仁。而亦且不得爲忠淸矣。
新字:問。朱子以謂。子文文子之不得為仁。是不能当理而無私心。如何。曰。不然。藉令二子行事当理而無私心。亦只是忠与清耳。若管仲。雖未見其事全当理。而心果無私。然夫子称其仁者。葢以民受其賜也。以当理而無私心解仁。是所謂不得其説。従而為之辞者。而去仁之義。益遠矣。若如其説。則不唯不得為仁。而亦且不得為忠清矣。
書き下し
問ふ、朱子以謂へらく、子文・文子の仁為ることを得ざるは、是れ理に当たりて私心無きこと能はざればなりと。如何。曰く、然らず。藉令ひ二子の行事理に当たりて私心無くとも、亦只だ是れ忠と清とのみ。管仲の若きは、未だ其の事全く理に当たり、而して心果たして私無きを見ずと雖も、然れども夫子其の仁を称する者は、蓋し民其の賜を受くるを以てなり。理に当たりて私心無きを以て仁を解するは、是れ所謂其の説を得ずして、従りて之が辞を為す者にして、仁の義を去ること益々遠し。若し其の説の如くんば、則ち唯に仁為ることを得ざるのみならず、而も亦且つ忠清為ることを得ず。
現代語訳
問う。朱子は、子文・文子が仁となり得なかったのは、理にかなって私心がないということができなかったからだと考えている。どうか。答える。そうではない。たとえ二人の行いが理にかない私心がなかったとしても、やはりただ忠と清にすぎない。管仲のような人は、その行いがすべて理にかない、心にまったく私がなかったとは見えないけれども、それでも孔子がその仁を称えたのは、思うに民がその恩恵を受けたからである。理にかなって私心がないことで仁を解釈するのは、いわゆる、その(正しい)説を得られないので、それに合わせて言葉をこしらえたというものであり、仁の意味からいよいよ遠ざかる。もしその説の通りなら、(二人は)仁となり得ないばかりか、忠や清ともなり得ないことになる。
解説
この章句が説くこと
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論語・公冶長篇子張問いて曰く、「令尹子文、三たび仕えて令尹と為るも、喜ぶ色無し。三たび之を已めらるるも、慍る色無し。旧令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如。」子曰く、「忠なり。」曰く、「仁なりや。」曰く、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。」「崔子斉君を弑す。陳文子馬十乗有り、棄てて之を違る。他邦に至れば、則ち曰く、『猶お吾が大夫崔子のごときなり』と。之を違る。一邦に之けば、則ち又曰く、『猶お吾が大夫崔子のごときなり』と。之を違る。何如。」子曰く、「清なり。」曰く、「仁なりや。」曰く、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。」
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