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童子問 / 卷上

問。聖人之仁與管仲之仁。是同是不同。曰同。堯舜之仁。猶大海之水汪汪洋洋不可涯涘也。管仲之仁。猶數尺井泉雖不足觀。然遇旱歲則亦可以資灌漑之利。雖有大小之差。豈謂之非水而可乎。至於子文文子。則猶瓶罌之水。雖極力負擔。不過數斗之多。其用有限。不足謂之水也。

新字:問。聖人之仁与管仲之仁。是同是不同。曰同。堯舜之仁。猶大海之水汪汪洋洋不可涯涘也。管仲之仁。猶数尺井泉雖不足観。然遇旱歳則亦可以資灌漑之利。雖有大小之差。豈謂之非水而可乎。至於子文文子。則猶瓶罌之水。雖極力負担。不過数斗之多。其用有限。不足謂之水也。

書き下し

問ふ、聖人の仁と管仲の仁と、是れ同じきか、是れ同じからざるか。曰く、同じ。堯舜の仁は、猶ほ大海の水の汪汪洋洋として涯涘すべからざるがごときなり。管仲の仁は、猶ほ数尺の井泉の観るに足らずと雖も、然れども旱歳に遇へば則ち亦以て灌漑の利に資すべきがごとし。大小の差有りと雖も、豈に之を水に非ずと謂ひて可ならんや。子文・文子に至りては、則ち猶ほ瓶罌の水の、力を極めて負担すと雖も、数斗の多きに過ぎず、其の用限り有りて、之を水と謂ふに足らざるがごときなり。

現代語訳

問う。聖人の仁と管仲の仁とは、同じなのか、同じでないのか。答える。同じである。堯・舜の仁は、大海の水が果てしなく広がって、岸辺を見定めることができないようなものである。管仲の仁は、数尺ほどの井戸の水が見るに足りないようでも、日照りの年に遭えば灌漑の利に役立つようなものである。大小の差はあっても、どうしてそれを水ではないと言ってよかろうか。子文・文子に至っては、瓶や甕の水のようなもので、力いっぱい担いでも数斗の量にすぎず、その用途は限られていて、水と呼ぶには足りないのである。

解説

仁の大小を水のたとえで鮮やかに示した章である。堯舜の仁は果てしない大海、管仲の仁は小さな井戸だが、日照りの年には田畑を潤す力がある。大小の違いはあっても、どちらも人々を潤す点で同じく仁だという。一方、子文・文子の徳は瓶や甕の水のように持ち運べる量が限られ、人々を潤すほどの働きはないので仁とは呼べない。この比喩は、仁が人を利する広がりで量られることをよく伝えている。自分の働きは小さくても、困ったときに誰かを潤す井戸になれているかを考えてみたい。

この章句が説くこと

仁管仲堯舜利沢水大小

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