弟子規 / 餘力學文・不力行
不力行、但學文、長浮華、成何人 但力行、不學文、任己見、昧理真
新字:不力行、但学文、長浮華、成何人 但力行、不学文、任己見、昧理真
書き下し
力行せずして、但だ文を学べば、浮華を長じ、何人にか成らん。 但だ力行して、文を学ばざれば、己が見に任せ、理の真に昧し。
現代語訳
実行に力を尽くさず、ただ書物を学ぶだけでは、うわべの華やかさが増すばかりで、どんな人間になるというのでしょう。 ただ実行に力を尽くして学問をしなければ、自分の考えにまかせて、道理の真実に暗くなります。
解説
ここから最後の「余力学文」の部です。『論語』学而篇の「行いて余力有れば、則ち以て文を学べ」を受けて、実行と学問の両方が欠けてはならないと述べます。知識だけで動かない人は、話は立派でも中身が伴いません。一方、実践だけで学ばない人は、経験則に固まって、より良いやり方や道理に気づけません。仕事でも、学びを現場で試し、現場の気づきを学びで確かめる往復が成長を早めます。どちらか一方に寄っていると感じたら、足りない側を補う時期です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
力行学文浮華己の見理余力
関連する章句
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『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。