大学或問 / 『大学或問』斎宮の再興と三千石の算段
出家を國師とするは、是も足利の師のごとく誤れり、武士は公儀の爲には皆臣なれば、禮嚴にして對話なりがたし、公家は公儀の客のごとくなれば、學才ある人を師とし音律に達せるを樂友とし給はゞ、よき事多かるべし、諸矦も其國にては君なれば一國皆臣なり、是も學校の師に公家の息客として來らば、友ありてよかるべしと、此人の言理に中れり、扨又伊勢と賀茂には齋宮あるべき事なれども、戰國の間に絕て其後は取立る事なし、武家一統の時領はいかほど入べきと尋ねられしに、三萬石なくては足がたしといへり、禁中の御領だに三萬石許なり、齋宮に左はなりがたしとて止たりといへり、柱に膠したるたとへのごとし、公家の人情事變をしらざる事毎度かくのごとし、昔は常にして成よかりし時の事も、今は常になき事なれば、取立るに成てはむづかし、今の三萬石の貢は王代の時の五畿內和泉か河內一國の貢に當るべし、王代には畿內五ヶ國にて天下の用足れり、齋宮ばかりに一國の貢を盡しては、天下の萬事いかで調ふべきや、昔の三萬石の貢は今の三千石なり、それも王代に皇女を立給ひし時の事なり、今は高三千石にて事足るべし、中を取て貢千五百石なり、武士にすれば靑侍二十人力者二十人馬五疋中間十人表向五十人許も扶持す、內所に女十人も十五人もあり、父母妻子を養ひ、公儀をつとむ、齋宮には此の如くの人馬入らず、女房上中下三人づゝ、年よりたる侍二三人、下男四五人にては事足るべし、外に樂人の女子七八人、三管に打ものゝ役者ありて樂して遊び給ひ、神明をすゞしめ給はんより外の事なし、官女三人は公家の子にて、箏琵琶和琴同絃し給はん、外に老女の文學歌學ある人有て、和漢の事をも聞道理をも知り給ふべし、高三千石貢千五百石にて事足るやうにせよとの一言にて再興は易かるべし、伊勢は本邦の太祖、賀茂は始祖にておはしませば、一たびおとりたる齋宮の廢るべきやうなき道理なり、
新字:出家を国師とするは、是も足利の師のごとく誤れり、武士は公儀の為には皆臣なれば、礼厳にして対話なりがたし、公家は公儀の客のごとくなれば、学才ある人を師とし音律に達せるを楽友とし給はゞ、よき事多かるべし、諸矦も其国にては君なれば一国皆臣なり、是も学校の師に公家の息客として来らば、友ありてよかるべしと、此人の言理に中れり、扨又伊勢と賀茂には斎宮あるべき事なれども、戦国の間に絶て其後は取立る事なし、武家一統の時領はいかほど入べきと尋ねられしに、三万石なくては足がたしといへり、禁中の御領だに三万石許なり、斎宮に左はなりがたしとて止たりといへり、柱に膠したるたとへのごとし、公家の人情事変をしらざる事毎度かくのごとし、昔は常にして成よかりし時の事も、今は常になき事なれば、取立るに成てはむづかし、今の三万石の貢は王代の時の五畿内和泉か河内一国の貢に当るべし、王代には畿内五ヶ国にて天下の用足れり、斎宮ばかりに一国の貢を尽しては、天下の万事いかで調ふべきや、昔の三万石の貢は今の三千石なり、それも王代に皇女を立給ひし時の事なり、今は高三千石にて事足るべし、中を取て貢千五百石なり、武士にすれば青侍二十人力者二十人馬五疋中間十人表向五十人許も扶持す、内所に女十人も十五人もあり、父母妻子を養ひ、公儀をつとむ、斎宮には此の如くの人馬入らず、女房上中下三人づゝ、年よりたる侍二三人、下男四五人にては事足るべし、外に楽人の女子七八人、三管に打ものゝ役者ありて楽して遊び給ひ、神明をすゞしめ給はんより外の事なし、官女三人は公家の子にて、箏琵琶和琴同絃し給はん、外に老女の文学歌学ある人有て、和漢の事をも聞道理をも知り給ふべし、高三千石貢千五百石にて事足るやうにせよとの一言にて再興は易かるべし、伊勢は本邦の太祖、賀茂は始祖にておはしませば、一たびおとりたる斎宮の廃るべきやうなき道理なり、
書き下し
出家を國師とするは、是も足利の師のごとく誤れり、武士は公儀の爲には皆臣なれば、禮嚴にして對話なりがたし、公家は公儀の客のごとくなれば、學才ある人を師とし音律に達せるを樂友とし給はゞ、よき事多かるべし、諸矦も其國にては君なれば一國皆臣なり、是も學校の師に公家の息客として來らば、友ありてよかるべしと、此人の言理に中れり、扨又伊勢と賀茂には齋宮あるべき事なれども、戰國の間に絕て其後は取立る事なし、武家一統の時領はいかほど入べきと尋ねられしに、三萬石なくては足がたしといへり、禁中の御領だに三萬石許なり、齋宮に左はなりがたしとて止たりといへり、柱に膠したるたとへのごとし、公家の人情事變をしらざる事毎度かくのごとし、昔は常にして成よかりし時の事も、今は常になき事なれば、取立るに成てはむづかし、今の三萬石の貢は王代の時の五畿內和泉か河內一國の貢に當るべし、王代には畿內五ヶ國にて天下の用足れり、齋宮ばかりに一國の貢を盡しては、天下の萬事いかで調ふべきや、昔の三萬石の貢は今の三千石なり、それも王代に皇女を立給ひし時の事なり、今は高三千石にて事足るべし、中を取て貢千五百石なり、武士にすれば靑侍二十人力者二十人馬五疋中間十人表向五十人許も扶持す、內所に女十人も十五人もあり、父母妻子を養ひ、公儀をつとむ、齋宮には此の如くの人馬入らず、女房上中下三人づゝ、年よりたる侍二三人、下男四五人にては事足るべし、外に樂人の女子七八人、三管に打ものゝ役者ありて樂して遊び給ひ、神明をすゞしめ給はんより外の事なし、官女三人は公家の子にて、箏琵琶和琴同絃し給はん、外に老女の文學歌學ある人有て、和漢の事をも聞道理をも知り給ふべし、高三千石貢千五百石にて事足るやうにせよとの一言にて再興は易かるべし、伊勢は本邦の太祖、賀茂は始祖にておはしませば、一たびおとりたる齋宮の廢るべきやうなき道理なり、
現代語訳
出家を国師とするのは、これも足利の師の例のように誤りである。武士は公儀に対してはみな臣であるから、礼が厳しくて対話しにくい。公家は公儀の客のようであるから、学才のある人を師とし、音律に達した者を楽友となさるなら、よいことが多いだろう。諸侯もその国では君であるから、一国みな臣である。これも、学校の師として公家の子息が客として来るなら、友がいてよいだろう、と。この人の言は理に当たっている。さてまた、伊勢と賀茂には斎宮を置くべきであるが、戦国の間に絶えて、その後は取り立てることがない。武家が天下を統一したときに、領地はどれほど要るかと尋ねられたところ、三万石なくては足りがたいと答えたという。禁中の御領でさえ三万石ばかりである。斎宮にそれほどはできないといって、止めたということだ。膠で柱を固めた譬え(融通がきかないこと)のようである。公家が人情と世の変事を知らないことは、毎度このようなものだ。昔は常のこととして行いやすかった事も、今は常にない事であるから、取り立てるとなると難しい。今の三万石の年貢は、王代の五畿内の和泉か河内一国の年貢にあたるだろう。王代には、畿内五か国で天下の費用が足りた。斎宮だけに一国の年貢を尽くしては、天下の万事がどうして整おうか。昔の三万石の年貢は、今の三千石にあたる。それも、王代に皇女を立てられた時のことである。今は高三千石で足りるだろう。中を取って年貢千五百石である。武士でいえば、青侍二十人、力者二十人、馬五疋、中間十人、表向き五十人ほどを扶持する。内所に女が十人も十五人もいる。父母妻子を養い、公儀を務める。斎宮にはこのような人馬は要らない。女房が上中下三人ずつ、年寄りの侍が二、三人、下男四、五人で足りるだろう。ほかに楽人の女子が七、八人、三管と打ち物の役者がいて、音楽をして遊ばれ、神明をお慰めするよりほかのことはない。官女三人は公家の子で、箏・琵琶・和琴を合奏なさるだろう。ほかに、文学・歌学のある老女がいて、和漢のことも聞き、道理も知っておられるのがよい。高三千石、年貢千五百石で足りるようにせよ、との一言で、再興は易しいだろう。伊勢はわが国の太祖、賀茂は始祖でいらっしゃるので、一度おとろえた斎宮が廃れたままでよいはずがない道理である。
解説

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