大学或問 / 『大学或問』公家と王子を学校の師とする案
二十學校の師と爲すべき人の事、 (問)心から佛道に歸して戒定慧の三學を修行する者をのみ出家をゆるさば、王子並に諸公家の息心から發心するはまれならん、いかにし給はんや、 (答)王子諸公家男女ともに出家し給はでも、道行はるゝ時はすべきやうあり、いまだ少なしとせんか、いつのころにやありけん、亂世にて禁中公家領貢を納る事なかりしかば、緣を尋て田舍に居る人多かりき、其公家の中に願はれし人ありときく、天下を一統して將軍とならん人、道學を好まれよかし、京に昔の學校を興し、國々にも古の如く學校あらば師になすべき人稀ならん、足利にかたばかり殘たる學校にさへ、師なければ出家に預け置たり、人倫の學校を出家に預け置べきやうなき事なり、諸國に師を多くせんには、京の學校に天子より諸公家の子生れながら官位の沙汰なく、たゞ人と同じく皆學校に入れ、文學音樂を習はしめ、樂人の子社家の子は王子公家の陪膳給仕の爲に入て、公儀より入用をあたへ、講習の時は同坐して共に學び、音樂を學ぶべし、其中に仁德おはします王子を位に即奉り、諸公家の才智のあるものを其家を嗣しめ、文學音樂に達せるを國々へ遣はすべし、王子は攝家淸花の子に准へ、攝家は羽林の子に准へ、官位を卑くし其國の客とせん、大國は貳千石、中は千五百石、其次は千石、小は五百石、高一萬石の上下はより合て師を招くべき哉、十萬石己上の學校に付もあるべし、樂人社家の子音樂文學ある者助となりて行べし、大國は五六人、中は四五人、小は二三人、別に領あるべし、皇女並に諸公家の女子たがひに此國客に嫁せん、一代を限り其子よりは其國のたゞ人となり、在々小學の師ともなり、才器あるは國用をもつとむべし、國學へば京より新につかはさるべし、此の如くならば國風ゆるやかに成て賤しからじ、國守は猶以て正しき禮樂を得て惡に習ふべからず、いよ〳〵すぐれたらんは、公方の師として客としてめさるべし、是を國師といはん、
新字:二十学校の師と為すべき人の事、 (問)心から仏道に帰して戒定慧の三学を修行する者をのみ出家をゆるさば、王子並に諸公家の息心から発心するはまれならん、いかにし給はんや、 (答)王子諸公家男女ともに出家し給はでも、道行はるゝ時はすべきやうあり、いまだ少なしとせんか、いつのころにやありけん、乱世にて禁中公家領貢を納る事なかりしかば、縁を尋て田舎に居る人多かりき、其公家の中に願はれし人ありときく、天下を一統して将軍とならん人、道学を好まれよかし、京に昔の学校を興し、国々にも古の如く学校あらば師になすべき人稀ならん、足利にかたばかり残たる学校にさへ、師なければ出家に預け置たり、人倫の学校を出家に預け置べきやうなき事なり、諸国に師を多くせんには、京の学校に天子より諸公家の子生れながら官位の沙汰なく、たゞ人と同じく皆学校に入れ、文学音楽を習はしめ、楽人の子社家の子は王子公家の陪膳給仕の為に入て、公儀より入用をあたへ、講習の時は同坐して共に学び、音楽を学ぶべし、其中に仁徳おはします王子を位に即奉り、諸公家の才智のあるものを其家を嗣しめ、文学音楽に達せるを国々へ遣はすべし、王子は摂家清花の子に准へ、摂家は羽林の子に准へ、官位を卑くし其国の客とせん、大国は貳千石、中は千五百石、其次は千石、小は五百石、高一万石の上下はより合て師を招くべき哉、十万石己上の学校に付もあるべし、楽人社家の子音楽文学ある者助となりて行べし、大国は五六人、中は四五人、小は二三人、別に領あるべし、皇女並に諸公家の女子たがひに此国客に嫁せん、一代を限り其子よりは其国のたゞ人となり、在々小学の師ともなり、才器あるは国用をもつとむべし、国学へば京より新につかはさるべし、此の如くならば国風ゆるやかに成て賤しからじ、国守は猶以て正しき礼楽を得て悪に習ふべからず、いよ〳〵すぐれたらんは、公方の師として客としてめさるべし、是を国師といはん、
書き下し
二十學校の師と爲すべき人の事、 (問)心から佛道に歸して戒定慧の三學を修行する者をのみ出家をゆるさば、王子並に諸公家の息心から發心するはまれならん、いかにし給はんや、 (答)王子諸公家男女ともに出家し給はでも、道行はるゝ時はすべきやうあり、いまだ少なしとせんか、いつのころにやありけん、亂世にて禁中公家領貢を納る事なかりしかば、緣を尋て田舍に居る人多かりき、其公家の中に願はれし人ありときく、天下を一統して將軍とならん人、道學を好まれよかし、京に昔の學校を興し、國々にも古の如く學校あらば師になすべき人稀ならん、足利にかたばかり殘たる學校にさへ、師なければ出家に預け置たり、人倫の學校を出家に預け置べきやうなき事なり、諸國に師を多くせんには、京の學校に天子より諸公家の子生れながら官位の沙汰なく、たゞ人と同じく皆學校に入れ、文學音樂を習はしめ、樂人の子社家の子は王子公家の陪膳給仕の爲に入て、公儀より入用をあたへ、講習の時は同坐して共に學び、音樂を學ぶべし、其中に仁德おはします王子を位に即奉り、諸公家の才智のあるものを其家を嗣しめ、文學音樂に達せるを國々へ遣はすべし、王子は攝家淸花の子に准へ、攝家は羽林の子に准へ、官位を卑くし其國の客とせん、大國は貳千石、中は千五百石、其次は千石、小は五百石、高一萬石の上下はより合て師を招くべき哉、十萬石己上の學校に付もあるべし、樂人社家の子音樂文學ある者助となりて行べし、大國は五六人、中は四五人、小は二三人、別に領あるべし、皇女並に諸公家の女子たがひに此國客に嫁せん、一代を限り其子よりは其國のたゞ人となり、在々小學の師ともなり、才器あるは國用をもつとむべし、國學へば京より新につかはさるべし、此の如くならば國風ゆるやかに成て賤しからじ、國守は猶以て正しき禮樂を得て惡に習ふべからず、いよ〳〵すぐれたらんは、公方の師として客としてめさるべし、是を國師といはん、
現代語訳
二十 学校の師となるべき人について。 問う。心から仏道に帰依して戒・定・慧の三学を修行する者にだけ出家を許すとすれば、王子や諸公家の子息が心から発心することは稀であろう。どうなさるのか。 答える。王子や諸公家は男女とも、出家なさらなくても、道を行うときにはなすべきやり方がある。それはまだ少ないというべきか。いつの頃だったか、乱世で、禁中も公家領も年貢を納めることがなかったので、縁を尋ねて田舎に住む人が多かった。その公家の中に、願った人があったと聞く。天下を一統して将軍となる人が、道学を好まれるようにと。京に昔の学校を興し、国々にも古のように学校があれば、師にすべき人は稀ではないだろう。足利にわずかに形ばかり残った学校でさえ、師がいないので出家に預けてある。人倫の学校を出家に預け置くべきではない。諸国に師を多くするには、京の学校に、天子から、諸公家の子が生まれながらに官位を与えられることなく、ただの人と同じく皆学校に入れ、文学と音楽を習わせる。楽人の子や社家の子は、王子・公家の配膳・給仕のために入り、公儀(幕府)から費用を与え、講習のときは同席して共に学び、音楽を学ぶ。その中で、仁徳のおありになる王子を位に即け奉り、諸公家の才智のある者にその家を継がせ、文学・音楽に達した者を国々へ遣わす。王子は摂家・清華の子に准え、摂家は羽林の子に准え、官位を低くし、その国の客とする。大国は二千石、中は千五百石、その次は千石、小は五百石とする。一万石前後の国は、寄り合って師を招くのがよいだろうか。十万石以上の学校に付ける場合もあるだろう。楽人や社家の子で音楽・文学のある者が助けとなって行く。大国は五、六人、中は四、五人、小は二、三人。別に領地を与える。皇女と諸公家の女子は、互いにこの国の客に嫁ぐ。一代に限り、その子からはその国のただの人となり、在々の小学の師ともなり、才能と器量のある者は国の用を務めるだろう。国学が必要になれば、京から新しく遣わす。このようにすれば、国の風習がゆるやかになって卑しくならない。国守は、なお正しい礼楽を得て悪い習慣に染まらない。いよいよ優れた者は、公方(将軍)の師として、客として召される。これを国師という。
解説

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