中朝事実 / 禮儀章・隋使裴世清の来朝と国書の応酬
推古帝十五年秋七月戊申朔庚戌。大禮小野臣妹子遣以於大唐。以鞍作福利爲通事。十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉師雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客。更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔。丙辰。客等泊于難波津。是日以餝船三十艘。迎客等于江口。安置新館。於是以中臣宮地連麻呂。大河內直糠手。船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是群臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輒不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔。癸卯。唐客入京。是日。遣餝騎七十五疋。而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。壬子。召唐客於朝廷。令奏使旨。時阿倍鳥臣・物部依網連抱二人爲客之導者也。於是大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜。言上使旨而立之。其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具狀。朕欽承寶命。臨仰區宇。思弘德化。覃被含靈。愛育之情。無隔遐邇。知皇介居海表。撫寧民庶。境內安樂。風俗融和。深氣至誠。遠修朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。指宣往意。并送物如別。時阿倍臣出進以受其書而進行。大伴囓連迎出承書。置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時皇子諸王諸臣。悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。〔一云。服色皆用冠色。〕丙辰。饗唐客等於朝。九月辛未朔。乙亥。饗客等於難波大郡。辛巳。唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲通事。副于唐客而遣之。爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想淸念。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。
新字:推古帝十五年秋七月戊申朔庚戌。大礼小野臣妹子遣以於大唐。以鞍作福利為通事。十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐国号妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。従妹子臣至於筑紫。遣難波吉師雄成。召大唐客裴世清等。為唐客。更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔。丙辰。客等泊于難波津。是日以餝船三十艘。迎客等于江口。安置新館。於是以中臣宮地連麻呂。大河内直糠手。船史王平為掌客。爰妹子臣奏之曰。臣参還之時。唐帝以書授臣。然経過百済国之日。百済人探以掠取。是以不得上。於是群臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣何怠之失大国之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輒不可罪。其大国客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔。癸卯。唐客入京。是日。遣餝騎七十五疋。而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告礼辞焉。壬子。召唐客於朝廷。令奏使旨。時阿倍鳥臣・物部依網連抱二人為客之導者也。於是大唐之国信物置於庭中。時使主裴世清親持書。両度再拝。言上使旨而立之。其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大礼蘇因高等至具状。朕欽承宝命。臨仰区宇。思弘徳化。覃被含霊。愛育之情。無隔遐邇。知皇介居海表。撫寧民庶。境内安楽。風俗融和。深気至誠。遠修朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。指宣往意。并送物如別。時阿倍臣出進以受其書而進行。大伴囓連迎出承書。置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時皇子諸王諸臣。悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〔一云。服色皆用冠色。〕丙辰。饗唐客等於朝。九月辛未朔。乙亥。饗客等於難波大郡。辛巳。唐客裴世清罷帰。則復以小野妹子臣為大使。吉士雄成為小使。福利為通事。副于唐客而遣之。爰天皇聘唐帝。其辞曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清念。此即如常。今遣大礼蘇因高・大礼乎那利等往。謹白不具。
書き下し
推古帝十五年秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子を以て大唐に遣はす。鞍作福利を以て通事と爲す。十六年夏四月、小野臣妹子大唐より至る。唐國、妹子臣を號して蘇因高と曰ふ。卽ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて筑紫に至る。難波吉師雄成を遣はして、大唐の客裴世清等を召さしむ。唐の客の爲に、更に新館を難波の高麗館の上に造る。六月壬寅朔丙辰、客等難波津に泊まる。是の日、餝船三十艘を以て客等を江口に迎へ、新館に安置す。是に中臣宮地連麻呂・大河內直糠手・船史王平を以て掌客と爲す。爰に妹子臣奏して曰く、臣參り還る時、唐帝書を以て臣に授く。然るに百濟國を經過する日、百濟人探りて以て掠取す。是を以て上ること得ず、と。是に群臣議して曰く、夫れ使人は死すと雖も旨を失はず。是れ使ひなるに何ぞ怠りて大國の書を失ふや、と。則ち流刑に坐す。時に天皇勅して曰く、妹子、書を失ふの罪有りと雖も、輒く罪すべからず。其の大國の客等聞かば亦良からじ、と。乃ち赦して坐せざるなり。秋八月辛丑朔癸卯、唐の客京に入る。是の日、餝騎七十五疋を遣はして、唐の客を海石榴市の衢に迎ふ。額田部連比羅夫、禮辭を以て告ぐ。壬子、唐の客を朝廷に召し、使の旨を奏せしむ。時に阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人、客の導者たり。是に大唐の國信物、庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ち、兩度再拜し、使の旨を言上して立つ。其の書に曰く、皇帝、倭皇に問ふ。使人長吏大禮蘇因高等至りて、具さに狀す。朕、欽んで寶命を承け、區宇に臨仰す。德化を弘め、含靈に覃び被らしめんことを思ふ。愛育の情、遐邇を隔つること無し。皇の介居して海表にあり、民庶を撫寧し、境內安樂にして、風俗融和し、深き氣至誠にして、遠く朝貢を修むるを知る。丹款の美、朕嘉する有り。稍に暄かなること比ごろ常の如し。故に鴻臚寺の掌客裴世清等を遣はし、往意を指宣し、并せて物を送ること別の如し、と。時に阿倍臣出で進みて其の書を受けて進み行く。大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の前の机の上に置きて奏す。事畢りて退く。是の時、皇子諸王諸臣、悉く金の髻華を以て頭に著く。亦衣服は皆錦紫繡織及び五色の綾羅を用ゐる。〔一に云ふ、服色は皆冠の色を用ゐる、と。〕丙辰、唐の客等を朝に饗す。九月辛未朔乙亥、客等を難波の大郡に饗す。辛巳、唐の客裴世清罷り歸る。則ち復た小野妹子臣を以て大使と爲し、吉士雄成を小使と爲し、福利を通事と爲し、唐の客に副へて遣はす。爰に天皇、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至り、久しき憶ひ方に解く。季秋薄冷、尊何如。清念を想ふ。此れ卽ち常の如し。今、大禮蘇因高・大禮乎那利等を遣はして往かしむ。謹んで白す、不具、と。
現代語訳
推古天皇十五年(607)秋七月三日、大礼の小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通訳とした。十六年夏四月、小野臣妹子が大唐から帰り着いた。唐の国では妹子臣を蘇因高と呼んでいた。大唐の使者の裴世清と随員十二人が、妹子臣に従って筑紫に着いた。難波吉師雄成を遣わして、大唐の客の裴世清らを迎えさせた。唐の客のために、新たに館を難波の高麗館の上手に造った。六月十五日、客たちが難波津に停泊した。この日、飾り立てた船三十艘で客たちを川口に出迎え、新しい館に落ち着かせた。そこで中臣宮地連麻呂・大河内直糠手・船史王平を接待役とした。さて妹子臣は奏上した。臣が帰ってくるとき、唐の皇帝は書を臣に授けました。ところが百済国を通り過ぎた日、百済人が探って奪い取りました。そのため差し上げることができません、と。そこで群臣が議して言った。使者というものは死んでも任務の趣旨を失わないものだ。使者でありながら、どうして怠って大国の書を失ったのか、と。そして流刑に処すことになった。そのとき天皇は勅して言った。妹子は書を失った罪があるとはいえ、軽々しく罪してはならない。大国の客たちが聞いても、よくは思わないだろう、と。そこで赦して罪に問わなかった。秋八月、唐の客が都に入った。この日、飾った騎馬七十五頭を遣わして、唐の客を海石榴市の辻で迎えた。額田部連比羅夫が礼の言葉を述べた。十二日、唐の客を朝廷に召し、使者の趣旨を奏上させた。このとき阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人が客の案内役であった。そこで大唐の国の贈り物を庭の中に置いた。使主の裴世清は自ら書を持ち、二度再拝して使いの趣旨を申し上げて立った。その書には次のようにあった。皇帝が倭皇に問う。使人の長吏の大礼蘇因高らが来て、詳しく状況を述べた。朕は謹んで天命を受け、天下に臨んでいる。徳による教化を広め、すべての生き物にまで及ぼしたいと思う。慈しみ育てる心は、遠い近いを隔てることがない。皇が海の彼方にあって、民を安んじ、国内は安らかで、風俗は和らぎ、深い誠の心で、遠く朝貢を修めていることを知った。その真心の美しさを、朕は喜ばしく思う。このごろは次第に暖かく、例年のとおりである。そこで鴻臚寺の掌客の裴世清らを遣わし、このたびの意を伝え、あわせて別紙のとおり品物を送る、と。そのとき阿倍臣が進み出てその書を受け、進んで行った。大伴囓連が迎え出て書を受け取り、大門の前の机の上に置いて奏上した。事が終わって退いた。このとき皇子・諸王・諸臣は、みな金の髻華を頭に着けた。衣服はみな錦・紫・刺繍・織物および五色の綾羅を用いた。(ある書には、服の色はみな冠の色を用いた、とある。)十六日、唐の客らを朝廷でもてなした。九月、客らを難波の大郡でもてなした。五日、唐の客の裴世清が帰国した。そこでまた小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通訳とし、唐の客に付き添わせて遣わした。ここに天皇は唐の皇帝に使いを送った。その文に言う。東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げる。使人の鴻臚寺の掌客の裴世清らが来て、長く思っていた気持ちがようやく解けた。晩秋で少し冷えるが、御身いかがか。お変わりないことと思う。こちらは常のとおりである。今、大礼の蘇因高・大礼の乎那利らを遣わして行かせる。謹んで申し上げる、意を尽くさない、と。
解説

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『中朝事実』禮儀章・対等の隣交と属国の別一書に曰く、群臣議して曰く、妹子懈怠して、蕃國の表を失ふ。罪、流刑に合ふ。具さに狀して聞奏す。天王、聖惠太子に問ふ。太子奏して曰く、妹子の罪は寔に寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來たる。思ふに復た如何、と。天皇大いに悅びて罪を免す。又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝、倭王に問ふ、云云。天皇、太子に問ひて曰く、此の書如何、と。太子奏して曰く、天子の諸侯王に賜ふ書式なり。然れども皇帝の字は天下に一のみ。而るに皇の字を用ふるは、彼に其の禮有るなり、と。天皇、太子以下を召して答書の辭を議す。太子、筆を握りて之を書して曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふ、云云。帝、謹んで白す、不具、と。〔通鑑綱目集覽に曰く、隋の煬帝大業四季戊辰三月、倭國入貢す。倭王書を遣はして曰く、日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、と。〕 謹んで按ずるに、是れ隣好を修むるの始めなり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候・水土・人物・事義、以て之を好みすべく、以て之を通ずべきなり。氣を同じくすれば相求め、類を同じくすれば相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各々其の類に從ふは、天の道なり。天地の博く、宇宙の渺たる、泛泛乎として此の州島あり。唯だ外國の事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くすること、猶ほ石水の相投じ、膠漆の相入るがごとし。千載の神聖、一日にして之に遇ふ。萬里の遠波、一葦にして之を航る。是れより隣交の道大いに啓け、互ひに聘禮す。外朝の經典、廣く世に行はれ、人人、聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ、雲は龍に從ひ、雲行き雨施して、品物大いに成る所以なり。善隣の時、其の資、懿からずや。蓋し國の大小を以てすれば則ち彼は大なり。人治の遠近を以てすれば則ち彼は遼かなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遼かなり、故に事義疆り無し。當時初めて書を制するに、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆に非ざれば、其の志氣洪量、能く本朝を中華と爲す所以を知らんや。夫れ外朝は其の地博くして約ならず。治敎盛んなれば則ち畫する所惟れ泛く、守文明らかならざれば則ち戎狄之に據る。吳・越・荊・楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或いは十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或いは臨安に退きて臣を醜虜に稱す。皆是れ戎狄に逼らるる所なり。是れ一大土中に地を畫り城を築き、以て封域を立て、境を四夷に接するなり。故に天下の勢ひ、或いは南北に袤くして東西蹙まり、或いは東西長くして南北縮む。或いは九州・十二州有り、或いは十道・二十三路を以てして、經畫一ならず。王統數々姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。人主治世の來ること久しければ、治亂盈虛、大いに變じ、人心悉く澆訛す。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子、君父を弑すること、猶ほ草を薙ぐがごとし。大臣・世臣、妖事を行ふこと禽獸の如し。是れ治道の變化し、微言の日に隱るるの失に非ずや。唯だ中國は之に反す。卓として巨海に立ち、封域自ら天險有り。神聖、天を繼ぎ極を立てしより爾來、四夷竟に藩籬をも窺ふを得ず。皇統連綿として天壤と窮まり無し。況んや神代の治悠久にして、人皇の祥、永算なるをや。今日の澆季も、亦た尙ほ周の末よりも優れり。〔凡そ帝堯より今に至るまで四千有餘年、神武帝より今に至るまで二千三百餘年、堯より周の末に至るまで殆ど二千餘年。〕言ふと雖も、若し果たして澆訛ならば當に鬼魅と爲るべし。上古は人少なくして氣淳し。治久しくして人多ければ、則ち氣漓して人澆なるは、天地の數なり。後世は誠に古に及ばざること遠し。然れども乃ち人物も亦た厚からざらんや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝に乏しからん。故に彼と相對して自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くするを、更に恥ぢざる所以なり。或ひと疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も、亦た好を修め隣を善くするに非ざるか、と。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神・垂仁帝の朝に在り。其の後、住吉の大神、高麗・百濟・新羅・任那等を譽田天王、及び若櫻宮に賜ふ。壹たび戎衣して各々面縛し、櫬を輿にし圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指して以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟ふ。伏して飼部と爲り、船の拖を乾さず、每歲朝貢を絕えず。初め國每に官家を置き、海表の蕃屏と爲す。是より歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否れば乃ち征伐して以て不逞を懲らす。然れば是れ海外の諸蕃は、皆中國の屬と爲る。唯だ外朝のみ以て通信すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華は終に聘禮を彼の地に行はず、往くこと厚く來ること薄くして、以て遠人を柔らげ外國を懷くるのみ。或ひと疑ふ、外朝も亦た來聘するか、と。愚按ずるに、推古朝に隋の煬帝、文林郞裴世清を遣はして來聘せしむ。天智朝に唐の客郭務悰等來聘す。其の書に曰く、大唐帝、敬みて日本國天皇に問ふ、と。天武朝に郭務悰又來聘す。
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『中朝事実』禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
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『中朝事実』化功章・外夷来帰し化功の極みを論ず崇神帝六十五年秋七月、任那国、蘇那曷叱知を遣はして、朝貢せしむ。任那とは、筑紫国を去ること二千余里。北は海に阻てられ、鶏林の西南に在り。 一書に曰はく、崇神の朝に、額に角有る人、一つの船に乗りて、越国の笥飯浦に泊れり。故に其の処を号けて角鹿と曰ふ。問ひて曰はく、「何れの国の人ぞ」と。対へて曰はく、「意富加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐なり。伝へ聞く、日本国に聖皇有りと。以て帰化せむとして穴門に到る。時に其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂ひて曰はく、吾は則ち是の国の王なり。吾を除きて復た二王無し。故に他処に往くこと勿かれと。然れども臣、其の為人を究め見て、必ず王に非ざるを知れり。即ち更に還る。道路を知らず、島浦に留連し、北海より廻りて、出雲国を経て、此の間に至れり」と。是の時、天皇の崩に遇ひ、便ち留まりて活目天皇に仕へ、三年に逮ぶ。天皇、都怒我阿羅斯等に問ひて曰はく、「汝の国に帰らむと欲ふか」と。対へ諮さく、「甚だ望むなり」と。天皇、阿羅斯等に詔して曰はく、「汝、道に迷はずして必ず速やかに詣れり。先皇に遇ひて仕へまつらましか。是を以て、汝の本の国の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負ひて、便ち汝の国の名と為せ」と。仍りて赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返す。故に其の国を号けて弥摩那国と謂ふ。其れ是の縁なり。 謹按。是れ外夷投化の始めなり。帝は小心にして徳を明らかにし、国内漸く謐かなり。五穀既に熟し、教化大いに行はる。天下称して御肇国天皇と謂ふ。故に外夷も亦投化す。聖徳の隆んなること、以て見るべきなり。 垂仁帝三年春三月、新羅の王子天日槍来帰す。将来せる物は、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿の赤石玉一箇、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日鏡一面、熊の神籬一具、并せて七物なり。則ち但馬国に蔵め、常に神物と為す。 一書に曰はく、初め天日槍、艇に乗りて播磨国に泊れり。宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣はして、天日槍に問はしめて曰はく、「汝は誰人ぞ。且つ何れの国の人ぞ」と。天日槍対へて曰はく、「僕は新羅国主の子なり。然れども日本国に聖皇有りと聞き、則ち己が国を以て弟知古に授けて、化して帰る」と。仍りて八物を貢献す。 謹按。崇神・垂仁二帝の徳化、外夷に及び、遠人重訳して来朝貢献す。聖徳治教の余り、仁風遠く揚がるの至りなり。其の柔懐、懿なるかな。 応神帝十四年、弓月君、百済より来帰す。因りて奏して曰はく、「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化す。然れども新羅人の拒むに因りて、皆加羅国に留まる」と。爰に葛城襲津彦を遣はして召す。十六年、乃ち弓月の人夫を率ゐて来る。 二十年秋九月、倭漢直の祖阿知使主・其の子都加使主、並びに己の党類十七県を率ゐて来帰す。 一書に曰はく、軽島豊明の朝に至りて、秦公の祖弓月、百二十県の民を率ゐて帰化す。漢直の祖阿知使主、十七県の民を率ゐて来朝す。秦・漢・百済、内附の民、各々万を以て計ふ。 謹按。遠人の来化、此に於いて最も盛んなり。秦・漢の二氏は、外朝の封疆なり。皆来帰す。況んや三韓の来服をや。故に国国に其の人を置き、其の郡を立て、以て之を安んじ之を柔らぐ。其の後、呉王朝貢し、渤海の武芸、表を奉り土宜を献ず。皆中朝の治教休明の化なり。〔呉王の朝貢は仁徳五十八年に在り。渤海王武芸の上表は神亀に在り。渤海とは、本は粟末靺鞨にして高麗に附く者。姓は大氏。高麗滅びて、衆を率ゐて挹婁の東牟山を保ち、城を築きて以て居る。高麗の遺残稍く之に帰す。地は方五千里、戸は十万戸。唐の睿宗の先天中、使を遣はして渤海郡王と為す。是より始めて靺鞨の号を去る。武芸とは祚栄の子、武王と称す。武芸立ちて朝貢す。武芸死して、子欽茂立ち、文王と称す。又上表朝貢す。〕 以上、功化の極を論ず。 謹按。地に内外有り、勢に遠近有り、人に華夷有り。故に治教の道は、内より外に及び、近きを先にして遠きを後にし、華に親しみて夷を柔らぐ。夫れ朝廷の上、国都の内、何ぞ四夷の遠疎に預からむや。然れども内の和、近きの治、華の溢れは、知の明らかなるなり。徳の充てるなり。通ぜざる無く、感ぜざる無き者は、道の精妙なり。四夷、千里の険、万頃の渺を遠しとせず、帰仰投化し、畢く方物を献ずるは、期せずして然るなり。中華の文明、聖王の治教、天以て之に授け、人以て之に与ふ。実に過化の極功なり。
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『神皇正統記』巻三 第三十四代 推古天皇是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましましき。
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『中朝事実』武德章・神功皇后の三韓征伐と武徳神功帝、住吉大神の教へに因りて、便ち髪を分けて結ひて髻と為す。因りて以て群臣に謂ひて曰はく、「夫れ師を興し衆を動かすは、国の大事なり。安危成敗、必ず斯に在り。今征伐する所有り。事を以て群臣に付す。若し事成らずは、罪は群臣に在り。是れ甚だ傷ましきかな。吾は婦女にして之に加へて不肖なり。然れども暫く男の貌を仮り、強ひて雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを藉り、兵甲を振ひて嶮浪を度り、艫船を整へて財土を求めむ。若し事就らば、群臣共に功有り。事就らずは、独り罪有り。既に此の意有り。其れ共に議れ」と。群臣皆曰はく、「皇后天下の為に計る。宗廟社稷を安んずる所以なり。且つ罪は臣下に及ばず」と。頓首して詔を奉る。秋九月庚午朔己卯、諸国に令して、船舶を集め、兵甲を練らしむ。時に軍卒自ら集まる。爰に吉日を卜して、発つに臨みて日有り。時に皇后親ら斧鉞を執り、三軍に令して曰はく、「金鼓節無く、旌旗錯乱すれば、則ち士卒整はず。財を貪り欲多く、私を懐き内に顧みれば、必ず敵の虜とならむ。其れ敵少なくとも軽んずること勿かれ。敵強くとも屈すること無かれ。則ち奸暴は聴すこと勿かれ。自ら服するは殺すこと勿かれ。遂に戦ひ勝たば必ず賞有り。背き走げば自ら罪有らむ」と。冬十月己亥朔辛丑、和珥津より発つ。時に飛廉風を起こし、陽侯浪を挙ぐ。海中の大魚悉く浮かびて船を挟む。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫓楫を労せず。便ち新羅に到る。時に船に随ふ潮浪遠く国中に逮ぶ。即ち知る、天神地祇悉く助けたまふかと。新羅王是に戦戦栗栗として、身を厝くに所無し。則ち諸人を集めて曰はく、「新羅の国を建てしより以来、未だ嘗て海水の国に凌ぶを聞かず。若し天運尽きて国海と為らむか」と。是の言未だ訖らざる間に、船師海に満ち、旌旗日に耀き、鼓吹声を起こし、山川悉く振ふ。新羅王遥かに望みて、非常の兵の、将に己が国を滅ぼさむとするかと以為ひ、讋れて志を失ふ。乃ち今醒めて曰はく、「吾聞く、東に神国有り、日本と謂ふ。亦聖王有り、天皇と謂ふと。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵を挙げて以て距ぐべけむや」と。即ち素旆して自ら服し、素組して面縛し、図籍を封じて、王船の前に降る。因りて叩頭して曰はく、「今より以後、長く乾坤と与にし、伏して飼部と為らむ。其れ船柂を乾さず、春秋に馬梳及び馬鞭を献らむ。復た海遠きを煩はさず、毎年に男女の調を貢らむ」と。則ち重ねて誓ひて曰はく、「東より日更に西に出づるに非ず、且除、阿利那礼河返りて逆に流れ、河の石昇りて星辰と為るに非ずは、殊に春秋の朝を闕き、忍びて梳鞭の貢を廃めば、天神地祇共に討ちたまへ」と。時に或るひと曰はく、「新羅王を誅せむと欲す」と。是に皇后曰はく、「初め神教を承けて、金銀の国を授けむとす。又三軍に号令して、自ら服するを殺すこと勿かれと曰へり。今既に財の国を獲たり。亦人自ら降服す。之を殺すは不祥なり」と。乃ち其の縛を解きて飼部と為す。遂に其の国中に入り、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収む。即ち皇后の杖きたまへる矛を以て、新羅王の門に樹てて、後葉の印と為す。故に其の矛は今も猶ほ新羅王の門に樹てり。爰に新羅王波沙寝錦、即ち微叱己知波珍于岐を以て質と為す。仍りて金銀彩色及び綾羅縑絹を齎して、八十艘の船に載せ、官軍に従はしむ。是を以て、新羅王常に八十艘の調を以て、日本国に貢ぐ。其れ是の縁なり。是に、高麗・百済の二国の王、新羅の図籍を収めて日本国に降れりと聞き、密かに其の軍勢を伺はしむるに、則ち勝つべからざるを知り、自ら営の外に来て、叩頭して歎きて曰はく、「今より以後、永く西蕃と称し、朝貢を絶たじ」と。故に因りて内官家を定む。皇后、新羅より還りたまふ。 謹按。是れ西戎征伐の始めなり。仲哀帝の朝、住吉大神、西戎の外夷を以て之を賜ふ。帝信ぜずして早く崩ず。皇后志を継ぎ事を述べ、刃に血ぬらずして、高麗・新羅・百済皆従服す。三韓は官家の藩屏と為る。応神帝、生まれながらにして聖武の形を備ふ。〔産まるるとき宍、腕の上に生ず。其の形鞆の如し。故に其の名を称して、誉田天皇と謂ふ。上古の俗、鞆を号して褒武多と曰ふ。〕謚を八幡と奉り、天下の武神と為り、其の祭祀を以て之に事ふること、猶ほ伊勢の御神のごとし。武家殊に之を崇敬す。噫、霊徳盛んなるかな。是より三韓毎年来朝して貢を奉り、正暦を朝廷に受け、政事を我が国に問ふ。四国来りて池を作る。〔応神七年秋九月、高麗・百済・新羅・任那来朝す。時に武内に命じて諸の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて以て池に名づけて韓人池と号す。〕其の柔懐を示し、子弟を質とし、博士を貢して、以て款誠を叩く。間に不逞の罪有れば、将帥を発して之を討つ。百済は王を殺して以て其の無礼を謝し、鉄鎖して酒君を以て其の虜を献ず。〔応神四年、百済の辰斯王無礼なり。国中に殺して謝す。酒君の事は、仁徳四十一年に在り。〕狭手彦、高麗を討ち、王宮に入りて、珍宝を獲、以て其の捷を奏す。〔欽明二十一年に在り〕或いは高麗、鉄盾及び的を献る。〔楯を射貫く人の技なり。仁徳十二年に在り。〕或いは表を慢り、羽の表を奉り、礼に抗ひ、索めて知り、而して以て責めを受けて察せらる。〔高麗の表無礼なるは応神二十八年に在り。鳥の羽の表を奉るは敏達元年に在り。〕故に西戎は其の武徳を懼れ、其の雄才に服し、悉く我が属国と為る。蓋し垂仁帝、既に田道間守に命じて、常世国に遣はして香菓を求めしむ。然れば乃ち此の時、西戎を并呑するの機有りて、其の功を若桜朝に成せるなり。皇后又軍師を発し、以て比自炑・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定し、南蛮を屠りて以て百済に賜ひ、処処に日本府を置きて、以て政令を布く。中国の武徳、此に至りて大いに盛んなり。吁、中朝の文物は、更に外朝に愧ぢず。其の威武の如きは、外朝も亦比倫すべからず。故に外朝の海防は、唯だ倭寇を要とす。倭寇とは何ぞ。西州の辺民、彼に虜掠するなり。官兵の寇に非ずして、其の落胆戦股すること然り。明朝の太祖、三たび使を我が国に遣はし、寇疆の禁を請ひ、好みを修めむと欲すること眷眷たり。終に祖訓を垂れて、絶倭を以て其の一と為す。是れ其の威武の余風を恐るるなり。〔以上、西戎を征す〕 以上、武義の徳を論ず。 謹按。五行に金有り、七情に怒有り、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用、亦大ならずや。然れども之を用ゐるに其の道を以てせざれば、則ち害人物に及び、終に自ら焼く。聖人以て興り、乱人以て廃する所以なり。豈に是れ兵の罪ならむや。蓋し神代の兵武や、惟れ神、惟れ聖にして、天討なり、天兵なり。其の将帥軍伍は、皆霊神なり。然れども猶ほ其の道を存し、其の礼を備へ、其の大事を示して、以て鑑とすべきなり。
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『神皇正統記』巻三 皇の字隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さまざま饗禄をたまひて使をかへしつかはさる。