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中朝事実 / 神治章・民を制し農を盡くし害を除く政

崇神帝十二年春三月丁丑朔丁亥。詔。朕初承天位獲保宗廟。明有所蔽。德不能綏。是以陰陽謬錯。寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦禮神祇。亦垂敎而綏荒俗。擧兵以討不服。是以官無廢事。下無逸民。敎化流行。衆庶樂業。異俗重譯來。海外旣歸化。宜當此時更校人民令知長幼之次第。及課役之先後焉。秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調女之手末調也。是以天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也。 謹按。是制民之產也。旣庶旣富。未嘗不以敎。人皆有欲。民者其蠢爾也。有情而不知節。有欲而不知制。故唯養之而不加制。則不可得保其身。專戒之而不以養。則不可得恒心。撫育敎導互持。而後所以於家給知恥也。帝以養民爲心。以導民爲敎。始制調賦之先後。敎長幼之次序。其化大哉。〔以上。制民之產。〕 六十二年秋七月乙卯朔丙辰。詔曰。農天下之大本也。民所恃以生也。今河內狹山埴田水少。是以其國百姓怠於農事。其多開池溝以寬民業。冬十月造依網池。十一月作苅坂池·反折池。〔一云。天皇居桑間宮。造是三池也。〕 謹按。是盡農之利也。利百穀者莫大乎水。今浚狹山及三池。盡力溝洫如此。自是歷代因循開水利備非常。垂仁帝作池於諸國。景行帝相續竭力。百姓大富。天下大平也。竊按。外朝周以農爲國之後。重此莫如漢文景二帝。文帝曰。農天下之大本也。景帝曰。農天下之本也。先儒曰。文帝有此詔凡三。景帝武帝亦皆以是言冠於詔之先。漢人去古未遠。猶知所重也。今與帝詔更不異。國雖有中外。至惓惓于民事一也。〔以上。盡農之利。〕 仁德帝十一年夏四月戊寅朔甲午。詔群臣曰。今朕視是國者。郊澤曠遠。而田圃少乏。且河水橫逝。以流末不駛。聊逢霖雨。海潮逆上。而巷里乘船。道路亦泥。故群臣共視之。決橫源而通海。塞逆流以全田宅。冬十月掘宮北之郊原。引南水以入西海。因以號其水曰掘江。又將防北河之澇。以築茨田堤。是時有兩處之築。而乃壞之難塞。時天皇夢有神誨之。獲塞其堤且成。 謹按。是除民之害也。天地之間爲民害者。天有旱潦之災。地有河海之暴。人君有志於爲民者。豫備先謀。以爲之制。則其災殆可遏。是人心所精一。物無可以勝也。旣除其害。則民之利百倍也。帝甚以民生爲要。開河以疏之。築堤以塞之。民以子來。神以佑之。故無隄岸之崩。無泉源之涸。無沙土之淤。無畛域之失。吁其德大哉。其後大盡力於溝洫。百姓寬饒。而無凶年之患。況爲橋路以利人民。以氷室規改其政。大答乾靈授國之德也。〔以上。除民之害。〕

新字:崇神帝十二年春三月丁丑朔丁亥。詔。朕初承天位獲保宗廟。明有所蔽。徳不能綏。是以陰陽謬錯。寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦礼神祇。亦垂教而綏荒俗。挙兵以討不服。是以官無廃事。下無逸民。教化流行。衆庶楽業。異俗重訳来。海外既帰化。宜当此時更校人民令知長幼之次第。及課役之先後焉。秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調女之手末調也。是以天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故称謂御肇国天皇也。 謹按。是制民之産也。既庶既富。未嘗不以教。人皆有欲。民者其蠢爾也。有情而不知節。有欲而不知制。故唯養之而不加制。則不可得保其身。専戒之而不以養。則不可得恒心。撫育教導互持。而後所以於家給知恥也。帝以養民為心。以導民為教。始制調賦之先後。教長幼之次序。其化大哉。〔以上。制民之産。〕 六十二年秋七月乙卯朔丙辰。詔曰。農天下之大本也。民所恃以生也。今河内狭山埴田水少。是以其国百姓怠於農事。其多開池溝以寛民業。冬十月造依網池。十一月作苅坂池·反折池。〔一云。天皇居桑間宮。造是三池也。〕 謹按。是尽農之利也。利百穀者莫大乎水。今浚狭山及三池。尽力溝洫如此。自是歴代因循開水利備非常。垂仁帝作池於諸国。景行帝相続竭力。百姓大富。天下大平也。窃按。外朝周以農為国之後。重此莫如漢文景二帝。文帝曰。農天下之大本也。景帝曰。農天下之本也。先儒曰。文帝有此詔凡三。景帝武帝亦皆以是言冠於詔之先。漢人去古未遠。猶知所重也。今与帝詔更不異。国雖有中外。至惓惓于民事一也。〔以上。尽農之利。〕 仁徳帝十一年夏四月戊寅朔甲午。詔群臣曰。今朕視是国者。郊沢曠遠。而田圃少乏。且河水横逝。以流末不駛。聊逢霖雨。海潮逆上。而巷里乗船。道路亦泥。故群臣共視之。決横源而通海。塞逆流以全田宅。冬十月掘宮北之郊原。引南水以入西海。因以号其水曰掘江。又将防北河之澇。以築茨田堤。是時有両処之築。而乃壊之難塞。時天皇夢有神誨之。獲塞其堤且成。 謹按。是除民之害也。天地之間為民害者。天有旱潦之災。地有河海之暴。人君有志於為民者。予備先謀。以為之制。則其災殆可遏。是人心所精一。物無可以勝也。既除其害。則民之利百倍也。帝甚以民生為要。開河以疏之。築堤以塞之。民以子来。神以佑之。故無堤岸之崩。無泉源之涸。無沙土之淤。無畛域之失。吁其徳大哉。其後大尽力於溝洫。百姓寛饒。而無凶年之患。況為橋路以利人民。以氷室規改其政。大答乾霊授国之徳也。〔以上。除民之害。〕

書き下し

崇神帝十二年春三月丁丑朔丁亥、詔す、朕、初めて天位を承け、宗廟を保つを獲たり。明は蔽ふ所有り、徳は綏んずる能はず。是を以て陰陽謬錯し、寒暑序を失ひ、疫病多く起こり、百姓災を蒙る。然るに今、罪を解き過ちを改め、神祇を敦礼し、亦敎を垂れて荒俗を綏んじ、兵を挙げて不服を討つ。是を以て官に廃事無く、下に逸民無く、教化流行し、衆庶業を楽しむ。異俗は重訳して来り、海外既に帰化す。宜しく此の時に当りて更に人民を校べ、長幼の次第、及び課役の先後を知らしむべし、と。秋九月甲辰朔己丑、始めて人民を校べ、更に調役を科す。此れを男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て天神地祇共に和享し、風雨時に順ひ、百穀用て成り、家給ち人足り、天下大いに平らかなり。故に称へて御肇国天皇と謂ふ。 謹んで按ずるに、是れ民の産を制するなり。既に庶く既に富めば、未だ嘗て教ふるに以てせずんばあらず。人皆欲有り。民とは其れ蠢爾なり。情有りて節を知らず、欲有りて制を知らず。故に唯だ之を養ひて制を加へざれば、則ち其の身を保つを得べからず。専ら之を戒めて養ふに以てせざれば、則ち恒心を得べからず。撫育教導互ひに持して、而る後に家に於いて給りて恥を知る所以なり。帝は養民を以て心とし、導民を以て教とす。始めて調賦の先後を制し、長幼の次序を教ふ。其の化大なるかな。〔以上、民の産を制す。〕 六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔して曰く、農は天下の大本なり。民の恃みて以て生くる所なり。今、河内の狭山の埴田は水少なし。是を以て其の国の百姓、農事に怠れり。其れ多く池溝を開きて以て民業を寛くせよ、と。冬十月、依網池を造る。十一月、苅坂池・反折池を作る。〔一に云ふ、天皇桑間宮に居し、是の三池を造ると。〕 謹んで按ずるに、是れ農の利を尽くすなり。百穀を利するは水より大なるは莫し。今、狭山及び三池を浚ふ。力を溝洫に尽くすこと此の如し。是より歴代因循し、水利を開き非常に備ふ。垂仁帝は池を諸国に作り、景行帝は相続きて力を竭し、百姓大いに富み、天下大いに平らかなり。竊かに按ずるに、外朝の周は農を以て国を為せし後、此れを重んずること、漢の文・景二帝に如くは莫し。文帝曰く、農は天下の大本なり、と。景帝曰く、農は天下の本なり、と。先儒曰く、文帝此の詔有ること凡そ三。景帝・武帝も亦皆是の言を以て詔の先に冠す、と。漢人は古を去ること未だ遠からず、猶ほ重んずる所を知るなり。今、帝の詔と更に異ならず。国に中外有りと雖も、民事を惓惓とするに至りては一なり。〔以上、農の利を尽くす。〕 仁徳帝十一年夏四月戊寅朔甲午、群臣に詔して曰く、今、朕、是の国を視るに、郊沢曠遠にして、田圃少乏し。且つ河水横に逝きて、流末駛からず。聊か霖雨に逢へば、海潮逆ひ上りて、巷里船に乗り、道路亦泥ぬ。故に群臣共に之を視て、横源を決めて海に通じ、逆流を塞ぎて以て田宅を全うせよ、と。冬十月、宮の北の郊原を掘り、南水を引きて西海に入る。因りて其の水を号けて掘江と曰ふ。又北河の澇を防がんとして、以て茨田堤を築く。是の時、両処の築有りて、乃ち壊れて塞ぎ難し。時に天皇、夢に神の誨ふる有り。其の堤を塞ぎ且つ成すを獲たり。 謹んで按ずるに、是れ民の害を除くなり。天地の間、民の害を為す者は、天に旱潦の災有り、地に河海の暴有り。人君、民の為にする有るに志せば、予め備へ先に謀りて、以て之が制を為せば、則ち其の災ひ殆ど遏むべし。是れ人心の精一にする所、物の以て勝つべき無し。既に其の害を除けば、則ち民の利は百倍なり。帝甚だ民生を以て要とし、河を開きて以て之を疏し、堤を築きて以て之を塞ぐ。民は子のごとく来たり、神は以て之を佑く。故に隄岸の崩るる無く、泉源の涸るる無く、沙土の淤る無く、畛域の失ふ無し。吁、其の徳大なるかな。其の後、大いに溝洫に力を尽くし、百姓寛饒にして、凶年の患無し。況んや橋路を為りて以て人民を利し、氷室を以て其の政を規改するをや。大いに乾霊の国を授けたまふ徳に答ふるなり。〔以上、民の害を除く。〕

現代語訳

崇神天皇の十二年春三月九日、詔して言った。「私は初めて天位を継ぎ、宗廟を保つことができた。しかし私の明は蔽われるところがあり、徳は人々を安んずるに足りなかった。そのため陰陽は乱れ、寒暑は順序を失い、疫病が多く起こり、百姓は災いを受けた。いま私は罪をほどき過ちを改め、神祇に礼を厚くし、また教えを垂れて荒れた風俗を安んじ、兵を挙げて服さない者を討った。そのため官に廃れた事務なく、民に隠れる者なく、教化が行き渡り、人々は業を楽しんでいる。異なる風俗の国は何重もの通訳を経てやって来て、海外もすでに帰化した。この時に、更に人民を調べ、長幼の順序、課役の先後を知らしめるべきである」。秋九月十六日、初めて人民を調べ、更に調と役を割り当てた。これを男の弭調、女の手末調という。こうして天神地祇はともに和み享け、風雨は時に順い、百穀は実り、家は足り人は満ち、天下は大いに平らかになった。だから称えて御肇国天皇といった。 素行はこう考える。これは民の生産を制するということである。すでに人が多くなり豊かになれば、教えないということはない。人にはみな欲がある。民は愚かである。情があっても節度を知らず、欲があっても抑制を知らない。だからただ養って制を加えなければ、その身を保てない。ただ戒めるだけで養わなければ、恒心(安定した心)を得られない。養い育てることと教え導くことを互いに保って、その後に家において足りて恥を知るようになる。帝は民を養うことを心とし、民を導くことを教えとした。初めて調と賦の先後を制し、長幼の次序を教えた。その感化は大きい。(以上、民の産を制す。) 六十二年秋七月二日、詔して言った。「農は天下の大本である。民が頼って生きる所である。いま河内の狭山の埴田は水が少ない。そのためその国の百姓は農事に怠りがちである。多くの池や溝を開いて、民の仕事に余裕を持たせよ」。冬十月、依網池を造った。十一月、苅坂池・反折池を作った。(ある書では、天皇が桑間宮にいて、この三つの池を造ったという。) 素行はこう考える。これは農の利を尽くすということである。百穀を利するのに水より大きなものはない。いま狭山および三池を掘った。力を溝や用水に尽くすことはこのようである。これ以降、歴代が踏襲し、水利を開いて非常に備えた。垂仁天皇は池を諸国に作り、景行天皇は続けて力を尽くし、百姓は大いに富み、天下は大いに平らかになった。私がひそかに考えるに、外朝の周は農を以て国を築いた後、これを重んじたのは漢の文帝・景帝の二帝に及ぶものはない。文帝は「農は天下の大本である」と言った。景帝は「農は天下の本である」と言った。先儒は、文帝にはこの詔が三度あり、景帝・武帝もみなこの言葉を詔の冒頭に置いたと言う。漢の人は古を去ることまだ遠くなく、重んじるところを知っていた。いま帝の詔と全く異ならない。国に中と外の違いはあっても、民の事に心を砕く点では同じである。(以上、農の利を尽くす。) 仁徳天皇の十一年夏四月十七日、群臣に詔して言った。「いま私はこの国を視ると、郊外の沢は広く遠く、田畑は少ない。その上、川の水は横にあふれ、流れの末ははかどらない。わずかに長雨に遭えば、海の潮が逆流して、町や里に船で行き来し、道路もまたぬかるむ。そこで群臣はともに視察して、横にあふれる水源を決って海に通じ、逆流を塞いで田や家を全うせよ」。冬十月、宮の北の野原を掘り、南の水を引いて西の海に入れた。そこでその水を掘江と名づけた。また北の川の洪水を防ごうとして、茨田堤を築いた。その時、二か所に築いたが、壊れて塞ぎにくかった。その時、天皇は夢に神が教える夢を見た。それによって堤を塞ぎ、成し遂げることができた。 素行はこう考える。これは民の害を除くということである。天地の間で民の害となるのは、天には旱魃や長雨の災いがあり、地には河や海の暴れがある。人君が民のために志すなら、あらかじめ備え先に謀って、その制を作れば、その災いはほとんど抑えられる。これは人の心が精一(精密にして一つにする)であれば、勝てないものはない。すでにその害を除けば、民の利は百倍となる。帝はたいへん民の生活を要とし、川を開いて水を疏通させ、堤を築いて塞いだ。民は子のように来て、神はこれを助けた。だから堤が崩れることなく、泉の源は涸れず、砂土は溜まらず、田の境界は失われなかった。ああ、その徳は大きい。その後、大いに溝と水路に力を尽くし、百姓は豊かで寛ぎ、凶年の患いがなかった。まして橋や道を造って人民を利し、氷室の制度でその政を改めたことは、天の霊が国を授けてくださった徳に大いに答えるものである。(以上、民の害を除く。)

解説

崇神天皇の人民調査と課役の制度、池溝を開く詔、仁徳天皇の堀江と茨田堤の築造を、素行は民の産を制し、農の利を尽くし、民の害を除くものとして並べます。『日本書紀』の記述を素行は政の具体策として読み、さらに漢の文帝の詔と並べて、国が違っても民事を心配する点は同じだと述べます。現代の組織でも、人員や役割の棚卸しをして負担の先後を決め、水害に備える堤のように、問題が起きる前の備えに投資する姿勢が、長い目で信頼を作ります。
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この章句が説くこと

崇神天皇人民を校ぶ農は天下の大本池溝水利茨田堤

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