中朝事実 / 神治章・天下を公にする詔と封建の始まり
崇神帝四年冬十月庚申朔壬午。詔曰。惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者。豈爲一身乎。蓋所以司收人神經綸天下。故能世闡玄功。時流至德。今朕奉承大運。愛育黎元。何當聿遵皇祖之跡。永保無窮之祚。其群卿百僚。竭爾忠貞。並安天下。不亦可乎。 謹按。人君私大寶。則天必不與。故災害幷起。帝公天下之詔。無窮之祚所以因成也。私大寶。故不議群臣。公天下。故共爾忠貞。大哉帝之德乎。宜哉外國之朝貢也。蓋人君之治道在公私之間。苟以富貴奉一身。則佞臣進而賢良日疏。貴爲天子。富有四海。宴安狂其心。聲色聾瞽其耳目。當此不顧祖宗黎元之重。不因群臣諤諤之諫。殆難卓爾於玆間。故其謬在公私之毫差。而其流至四海之困窮。天祿之安危。其機微哉。〔以上。謂治道之要。〕 大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市。帥以昇天。陳其誠欵之至。高皇產靈尊勅大物主神。汝若以國神爲妻。吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姬配汝爲妻。宜領八十萬神永爲皇孫奉護。乃使還降之。 謹按。是命封建之義也。大物主神。其子凡有一百八十一神。以經營天下。百姓大蒙其恩賴。其功甚大也。天孫降臨之時。帥八十萬神以昇天。叩其懇欵。故天神封建之。永爲皇孫之藩屏。以奉護皇家也。自是大神〔又曰大和三輪神也。〕之孫大盛此國也。〔事代主神生二男一女。天日方·奇日方命。橿原朝爲食國政申大夫。媛蹈鞴五十鈴媛命爲正后。乃綏靖帝母也。〕 景行帝四年。七十餘子皆封國郡。各如其國。故當今時。謂諸國之別者。卽其別王之苗裔焉。〔天皇之男女前後並八十子。然今七十子封建。〕 五十五年春二月戊子朔壬戌。以彥狹島王拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然早世。五十六年秋八月。詔御諸別王曰。汝父彥狹島王不得向任所而早薨。故汝專領東國。是以御諸別王。承天皇命。且欲成父業。則行治之。早得善政。是以東久之無事焉。由是其子孫於今在東國。 謹按。是人皇封建之始也。封建宗子。以護王室者。治道之要也。彥狹島王拜東山道都督者。乃東方之伯也。此時有封建方伯之制。以藩屏持維中國也。〔以上。謂封建之制。〕
新字:崇神帝四年冬十月庚申朔壬午。詔曰。惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者。豈為一身乎。蓋所以司収人神経綸天下。故能世闡玄功。時流至徳。今朕奉承大運。愛育黎元。何当聿遵皇祖之跡。永保無窮之祚。其群卿百僚。竭爾忠貞。並安天下。不亦可乎。 謹按。人君私大宝。則天必不与。故災害幷起。帝公天下之詔。無窮之祚所以因成也。私大宝。故不議群臣。公天下。故共爾忠貞。大哉帝之徳乎。宜哉外国之朝貢也。蓋人君之治道在公私之間。苟以富貴奉一身。則佞臣進而賢良日疏。貴為天子。富有四海。宴安狂其心。声色聾瞽其耳目。当此不顧祖宗黎元之重。不因群臣諤諤之諫。殆難卓爾於玆間。故其謬在公私之毫差。而其流至四海之困窮。天禄之安危。其機微哉。〔以上。謂治道之要。〕 大物主神及事代主神。乃合八十万神於天高市。帥以昇天。陳其誠欵之至。高皇産霊尊勅大物主神。汝若以国神為妻。吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穂津姫配汝為妻。宜領八十万神永為皇孫奉護。乃使還降之。 謹按。是命封建之義也。大物主神。其子凡有一百八十一神。以経営天下。百姓大蒙其恩頼。其功甚大也。天孫降臨之時。帥八十万神以昇天。叩其懇欵。故天神封建之。永為皇孫之藩屏。以奉護皇家也。自是大神〔又曰大和三輪神也。〕之孫大盛此国也。〔事代主神生二男一女。天日方·奇日方命。橿原朝為食国政申大夫。媛蹈鞴五十鈴媛命為正后。乃綏靖帝母也。〕 景行帝四年。七十余子皆封国郡。各如其国。故当今時。謂諸国之別者。即其別王之苗裔焉。〔天皇之男女前後並八十子。然今七十子封建。〕 五十五年春二月戊子朔壬戌。以彦狭島王拝東山道十五国都督。是豊城命之孫也。然早世。五十六年秋八月。詔御諸別王曰。汝父彦狭島王不得向任所而早薨。故汝専領東国。是以御諸別王。承天皇命。且欲成父業。則行治之。早得善政。是以東久之無事焉。由是其子孫於今在東国。 謹按。是人皇封建之始也。封建宗子。以護王室者。治道之要也。彦狭島王拝東山道都督者。乃東方之伯也。此時有封建方伯之制。以藩屏持維中国也。〔以上。謂封建之制。〕
書き下し
崇神帝四年冬十月庚申朔壬午、詔して曰く、惟れ我が皇祖諸天皇等の宸極に光臨したまへるは、豈に一身の為ならんや。蓋し人神を司り収め、天下を経綸する所以なり。故に能く世々玄功を闡き、時に至徳を流く。今、朕大運を奉承し、黎元を愛育す。何ぞ当に聿に皇祖の跡に遵ひ、永く無窮の祚を保つべき。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭し、並びに天下を安んぜよ、亦可ならずや、と。 謹んで按ずるに、人君大宝を私すれば、則ち天必ず与せず。故に災害並び起こる。帝の天下を公にするの詔は、無窮の祚の因りて成る所以なり。大宝を私す、故に群臣に議せず。天下を公にす、故に爾の忠貞を共にす。大なるかな帝の徳や。宜なるかな外国の朝貢するや。蓋し人君の治道は公私の間に在り。苟くも富貴を以て一身に奉ずれば、則ち佞臣進みて賢良日々に疏し。貴は天子たり、富は四海を有ち、宴安其の心を狂はせ、声色其の耳目を聾瞽にす。此に当りて祖宗黎元の重きを顧みず、群臣諤諤の諫に因らず、殆ど卓爾たること此の間に難し。故に其の謬りは公私の毫差に在りて、其の流れは四海の困窮に至る。天禄の安危、其の機微なるかな。〔以上、治道の要を謂ふ。〕 大物主神及び事代主神、乃ち八十万神を天高市に合せ、帥ゐて以て昇天し、其の誠款の至りを陳ぶ。高皇産霊尊、大物主神に勅して曰く、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝に疏き心有りと謂はん。故に今吾が女三穂津姫を以て汝に配して妻とす。宜しく八十万神を領ゐ、永く皇孫の為に奉り護れ、と。乃ち使して還し降らしむ。 謹んで按ずるに、是れ封建を命ずるの義なり。大物主神は、其の子凡そ百八十一神、以て天下を経営し、百姓大いに其の恩頼を蒙り、其の功甚だ大なり。天孫降臨の時、八十万神を帥ゐて以て昇天し、其の懇款を叩く。故に天神之を封建し、永く皇孫の藩屏と為し、以て皇家を奉り護らしむ。是より大神〔又曰く、大和三輪神なり。〕の孫、大いに此の国に盛んなり。〔事代主神は二男一女を生む。天日方・奇日方命、橿原朝に食国政申大夫と為る。媛蹈鞴五十鈴媛命は正后と為る。乃ち綏靖帝の母なり。〕 景行帝四年、七十余の子、皆国郡に封ず。各々其の国の如し。故に今の時、諸国の別と謂ふ者は、即ち其の別王の苗裔なり。〔天皇の男女、前後并せて八十子。然れども今七十子に封建す。〕 五十五年春二月戊子朔壬戌、彦狭島王を以て東山道十五国の都督に拝す。是れ豊城命の孫なり。然れども早世す。五十六年秋八月、御諸別王に詔して曰く、汝が父彦狭島王、任所に向かふを得ずして早く薨ず。故に汝専ら東国を領めよ、と。是を以て御諸別王、天皇の命を承け、且つ父の業を成さんと欲し、則ち行きて之を治む。早く善政を得たり。是を以て東は久しく無事なり。是に由りて其の子孫、今に東国に在り。 謹んで按ずるに、是れ人皇封建の始めなり。宗子を封建して以て王室を護るは、治道の要なり。彦狭島王の東山道都督に拝せらるるは、乃ち東方の伯なり。此の時、封建方伯の制有りて、以て藩屏として中国を持維するなり。〔以上、封建の制を謂ふ。〕
現代語訳
崇神天皇の四年冬十月二十三日に、詔して言った。「わが皇祖の歴代の天皇たちが天子の位に光臨されたのは、どうして一身のためだろうか。人と神とを司り収め、天下を経綸するためである。だからよく代々大きな功を開き、時に至徳を流し広げた。いま私は大いなる運を受け継ぎ、民を愛し育てる。どうして皇祖の跡に従い、永く窮まりない皇位を保たないでいられよう。群卿百官は、おまえたちの忠と貞を尽くして、ともに天下を安んじなさい。それでよいではないか」。 素行はこう考える。人君が大宝(皇位)を私物にすれば、天は必ず味方しない。だから災害が並び起こる。帝が天下を公にした詔は、窮まりない皇位が成り立つ理由である。大宝を私物にするから群臣に諮らない。天下を公にするから、おまえたちの忠貞をともにするのである。大きいことだ、帝の徳は。外国が朝貢したのももっともである。人君の治道は公と私の間にある。もし富貴を一身のために使えば、へつらう臣が進み、賢良の者は日に日に遠ざかる。貴さは天子となり、富は四海を有し、安楽はその心を狂わせ、音楽や女色はその耳目を塞ぐ。このような時に祖宗や民の重さを顧みず、群臣の直言の諫めにも従わなければ、ここから抜け出ることはほとんど難しい。だからその過ちは公私のわずかな差にあり、その流れは四海の困窮に至る。天の禄の安危、その機微は恐ろしい。(以上、治道の要を述べる。) 大物主神と事代主神は、八十万の神々を天の高市に集め、率いて昇天し、その誠の至りを申し述べた。高皇産霊尊は大物主神に勅した。「あなたが国つ神を妻とするなら、私はあなたにまだ疎遠な心があると思うであろう。そこで今、私の娘の三穂津姫をあなたの妻とする。八十万の神々を領いて、永く皇孫のために奉り守りなさい」。そして使わして降らせた。 素行はこう考える。これは封建を命じた義である。大物主神は、その子が百八十一神で、天下を経営し、百姓は大いにその恩を受け、その功績はきわめて大きい。天孫が降臨した時、八十万の神々を率いて昇天し、誠の心を示した。だから天神は彼を封建し、永く皇孫の藩屏として皇家を奉り守らせた。それ以来、大神(また大和の三輪の神という。)の子孫はこの国で大いに栄えた。(事代主神は二男一女を生んだ。天日方命・奇日方命は橿原の朝で食国政申大夫となった。媛蹈鞴五十鈴媛命は正后となった。これが綏靖天皇の母である。) 景行天皇の四年、七十余人の子を、みな国や郡に封じた。それぞれその国のとおりである。だから今の時代に諸国の別と呼ばれる者は、その別王の子孫である。(天皇の男女は前後合わせて八十人の子があった。しかし今、七十人の子を封建した。) 五十五年春二月二日、彦狭島王を東山道十五国の都督に任じた。豊城命の孫である。しかし彼は若くして亡くなった。五十六年秋八月、御諸別王に詔して言った。「あなたの父彦狭島王は、任地に赴けないまま早く亡くなった。だからあなたが専ら東国を治めなさい」。そこで御諸別王は、天皇の命を承け、また父の事業を成そうと思い、赴いて治めた。早くに善政を行った。そのため東国は長く無事であった。このことから、その子孫は今も東国にいる。 素行はこう考える。これが人皇の封建の始まりである。宗子(本家の嫡子)を封建して王室を護ることは、治道の要である。彦狭島王が東山道都督に任じられたのは、東方の伯である。この時、封建と方伯の制度があって、藩屏として中国(日本)を維持した。(以上、封建の制を述べる。)
解説

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『尚武論』・上古の封建の沿革と屯倉の備え乃ち命じて国造と為す者凡そ八、県王と為す者凡そ三。是の時に当たり、王畿は独り中州の地を有つのみ。国造・県主は頗る其の中に封を受く。其の余の諸国は、唯だ之に正始を与ふるのみ。崇神の世、始めて皇子を封じ、東方を鎮撫せしむ。後、男女の調役を定む。皇子の分封、邦国の貢賦、皆此より始まる。景行丕いに其の緒を承け、以て前烈を揚ぐ。弗庭を四征し、大いに十字を拓く。而して帝の八十余子、封を受くる者七十七人。更に宗室を封じ、東山十五道の都督と為し、犬牙相臨み、天下を統制す。是に於いて国にも亦別有り(所謂別王是れなり)。成務、徳を嗣ぎ、始めて天下を分かち、国郡県邑に各々官長を置く。其の国造と為る者は凡そ九十有四。餘は則ち詳らかに考ふべからず。蓋し猶ほ周に五等の国有るがごとし。上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀に供するに足る。以て京師を藩輔す。初め垂仁、始めて屯田を置き、称して帝皇の田と為す。猶ほ周人の所謂天子の田のごとし。其の官を屯田司と曰ふ。屯田・屯倉、即ち此に始まる。景行乃ち諸国に田部・屯倉を与へしむ。蓋し古は耕田の業、猶ほ食に足らず、凶年荒歳、最も艱阨多し。是に於いて諸国に勅令して、其の土を制し、其の民を処き、稼穡を務め、畜積を広くし、以て災害に備へしむ。其の制は猶ほ後の義倉のごとし。安閑に延及び、屯倉を西南の諸国に制置すること凡そ十三所。乃ち有司に令して其の田租の事を掌らしむ。是より後、寛閑の野を経理し、膏腴の田を墾闢し、有司に分命して以て其の政を掌らしむること、史に絶えず書す。所謂封建郡県を兼有すとは是れなり。景行の皇子倭武薨ず。因りて式部を定む。曰く、功名を録さんと欲すればなり、と。名代入部、実に此に始まる。厥の後、仁徳、皇后・太子及び諸皇子の為に名代部を定め、皇后の湯沐邑、太子諸王の食封も、亦皆此より始まるなり。清寧、子無く、白髪部・舎人・膳部・靭負等を諸国に置く。武烈・安閑、皆其の故事に循ふ。之を子代入部と謂ふ。蓋し其の子無きを以て之を置く。因りて子代と謂ふ。皇后子無くも亦之を置く。名代・子代、号を殊にして実を同じうするのみ。之を置くの制、其の詳しきは未だ聞かず。亦猶ほ漢の時の陵邑、天下の民と田宅とを徙して陵を守らしむるがごときなり。孝徳の創制立法に至り、国郡県邑に其の君長を廃し、其の禄俸を制す。
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『中朝事実』皇統章・神武天皇の即位と三綱・皇統無窮の論神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀葺不合尊の第四子なり。年四十五歳に及び、諸兄及び子等に謂いて曰く、昔、我が天神高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けたまえり。是に於いて火瓊瓊杵尊、天関を闢き、雲路を披き、駈山躍りて以て戻止る。是の時、運は鴻荒に属し、時は草昧に鍾る。故に蒙にして以て正を養い、此の西偏を治めたまう。皇祖・皇考、乃ち神、乃ち聖、慶を積み暉を重ね、多くの年所を歴たり。天祖の降跡より以逮、今に于りて一百七十九万二千四百七十余歳なり。而して遼邈の地、猶お未だ王沢に霑わず。遂に邑に君有り、村に長有りて、各おの自ら疆を分かち、用て相凌躒せしむ。抑も又た塩土老翁に聞く、東に美地有り、青山四周せり。其の中に亦た天磐船に乗りて飛び降る者有り、と。余謂えらく、彼の地は必ず以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし、蓋し六合の中心か、と。遂に東征して中州を定む。 謹んで按ずるに、是れ人皇、中州を平らげ、天祖の降跡を続ぐの始めなり。 辛酉春正月庚辰朔、天皇、帝位に大倭州の橿原宮に即く。是の歳を天皇元年と為す。正妃を尊びて皇后と為す。皇子神淳名川耳尊を立てて皇太子と為す。 謹んで按ずるに、是れ天皇即位の始めなり。初め天神、磤馭廬島を以て国中の柱と為し、分巡りて国柱す。天孫は浮渚の平処に立ち、宮殿を立つ。皆な後世の即位の意なり。洪濛の間、悠久にして以て正を養う。帝は明達大雄にして、善く乾霊の志を継ぎ、善く皇孫の事を述ぶ。一たび戎衣して東方服す。故に人皇の洪基を建て、即位の大礼を開く。蓋し即位とは何ぞ。天子、大宝の位に即くなり。人君、天を継ぎ極を建て、万国以て朝し、元元以て仰ぎ、四海始めて知る。天子の以て崇ぶべき、明徳を中州に明らかにするの義を。即位の大礼は、人君、綱紀を其の始めに正す。豈に忽せにすべけんや。是れより代代の聖主、各おの此の儀を正殿に行う。〔大極殿、朝堂殿と謂う、是れなり。〕大臣、左右に扶翼す。〔大神勅す、天児屋命・太玉命、惟れ爾二神も亦た同じく殿内に侍いて、善く防護を為せ、と。是れ其の義なり。〕百官、囲み護りて、以て天儀を奉拝す。外国の所謂る正月元日、舜、文祖に格る、是れなり。元とは始めなり、本なり。元年とは即位の初年にして、根本を此に深くして傾かず抜けざるの謂なり。〔此の時既に暦数紀年有り。店暦本とは、百済の釈観勒、推古十年之を献ず。〕皇后を立つるとは、男女の別を正し、嫡媵の辨を明らかにし、廃奪の失を懲らすなり。太子を建つとは、〔神武帝の四十二年に在り。〕父子の親を著し、嫡庶の分を厳にし、宗廟の統を固くするなり。故に人君、即位の礼を厳にして後、天下の君臣其の分定まる。后妃の道を重くして後、天下の男女其の別正し。建立の法を定めて後、天下の父子親しむ。三者は人の大倫なり。三綱立ち行わるれば、則ち身修まり家斉い、治平の功、坐して以て俟つべし。帝、皇極を人皇の始めに建て、規模を万世の上に定む。而して中国明らかに三綱の遺すべからざるを知る。故に皇統一たび立ちて、億万世襲いて変ぜず。天下皆な正朔を受けて其の時を貳つにせず、万国王命を禀けて其の俗を異にせず。三綱終に沈淪せず、徳化塗炭に陥らず。異域の外国、豈に企望すべけんや。夫れ外朝は姓を易うること殆ど三十姓。戎狄入りて王たること数世。春秋二百四十余年、臣子其の国君を弑する者二十又五。況んや其の先後の乱臣賊子は枚挙すべからず。朝鮮は箕子命を受けて以後、姓を易うること四氏、其の国を滅ぼして或いは郡県と為し、或いは高氏滅絶すること凡そ二世。彼の李氏の二十八年の間、王を弑する者四。況んや其の先後の乱逆は禽獣の相残うに異ならず。唯だ中国は開闢より人皇に至るまで、二百万歳に垂とし、人皇より今日に迄るまで二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統は竟に違わず。其の間の弑逆の乱は、指を屈して数うべからず。況んや外国の賊は竟に吾が辺藩を窺うを得ざるをや。後白河帝の後、武家執権すること既に五百又た余年。其の間、未だ嘗て利皆長距以て擅場を得、冠猴封豕、縦火秋蓬の類無くんばあらず。而も猶お王室を貴び君臣の儀を存す。是れ天神人皇の知徳縣象著明にして、没世忘るべからざるなり。其の過化の功、綱紀の分、然く悠久に然く無窮なる者は、至誠より流出するなり。三綱既に立てば、則ち条目の著るる、治政の極致に在り。凡そ八紘の大、外国の汎、中州皇綱の化に如くは無し。文武の功、其の至徳、豈に大ならずや。〔以上、人皇の即位。〕 以上、皇統の無窮を論ず。謹んで按ずるに、天下とは神器にして、人君とは人物の命を繋ぐ者なり。其の与授の間、豈に一人の私を存せんや。皇統の初め、天神以て之を授け、天孫以て之を受く。然れば乃ち其の知徳、天地に愧じずして後、神器の与授と謂うべし。凡そ天は言わず、人之に代わりて言う。天下の人仰ぎ帰すれば、則ち天之に命ずるなり。天下の帰仰する所、更に他に非ず。唯だ天祖眷眷の命に在るのみ。
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『中朝事実』賞罰章・賞罰の始まりと人皇の行賞二神共に日神を生む。此の子、光華明彩にして、六合の內を照徹す。故に二神喜びて曰く、吾が息、多しと雖も、未だ此の若き靈異の兒有らず。宜しく久しく此の國に留むべからず。自ら當に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし、と。故に天柱を以て天上に擧ぐ。次に月神を生む。其の光彩、日に亞ぐ。以て日に配して治むべし。故に亦た之を天に送る。次に蛭兒を生む。已に三歲と雖も、脚猶ほ立たず。故に之を天磐櫲樟船に載せて、風に順ひて放ち棄つ。次に素戔鳴尊を生む。此の神、勇悍にして以て安忍あり。且つ常に哭泣を以て行と爲す。故に國內の人民をして多く夭折せしめ、復た靑山をして枯れに變ぜしむ。故に其の父母二神、素戔鳴尊に勅す、汝、甚だ無道なり。以て宇宙に君臨すべからず。固より當に遠く根國に適くべし、と。遂に之を逐ふ。 謹んで按ずるに、是れ二神善を賞し惡を懲らして私せざるの義なり。蓋し人情には必ず喜怒有り。喜怒有れば則ち好惡有り。好惡は必ず其の私に偏り、其の至公を得ざれば、善惡混じて正しからず。故に神聖と雖も、亦た未だ嘗て取捨無くんばあらず。取捨の道は、其の分、親に始まる。親にして以て私せざれば、則ち其の及ぶ所以て知るべきなり。今、中州の主に命ぜんと欲して、其の四子に於て、其の名分の嚴、其の取捨の正、是れ乃ち萬世賞罰の源なり。 天神、經津主神・武甕槌神を遣はし、葦原中國を平定せしむ。是に大巳貴神、岐神を二神に薦む。故に經津主神、岐神を以て鄕導と爲し、周流して削平す。命に逆ふ者有れば、卽ち斬戮を加へ、歸順する者には、仍りて褒美を加ふ。 謹んで按ずるに、是れ賞罰の始めなり。凡そ賞刑は、其の過不及を齊しくするの道にして、人を善に勸導し、惡を人に懲示するの事なり。人の氣質同じからず、俗の風敎正しからざれば、則ち或いは惡を習ひて恒と爲し、或いは暴逆を以て業と爲す。故に刑以て之を威し、罰以て之を懲らすは、君子の之を愛する所以にして、惡〔去聲〕みて以て害するに非ず。刑賞を以て之を御せざれば、則ち善惡明らかならず、君子の道消え、小人の道長ず。愼まざるべけんや。〔以上、賞罰の義。〕 大物主神及び事代主神、乃ち八十萬神を天高市に合し、帥ゐて以て昇天す。其の誠款の至りを陳ぶ。時に高皇產靈尊、大物主神に勅す、汝、若し國神を以て妻とせば、吾猶ほ汝に疏き心有りと謂はん。故に今、吾が女三穗津姬を以て、汝に配して妻と爲す。宜しく八十萬神を領ゐて、永く皇孫の爲に奉護すべし、と。乃ち使して還り降らしむ。 謹んで按ずるに、是れ天神行賞の始めなり。 神武帝卽位二年春二月甲辰朔乙巳、天皇、功を定め賞を行ふ。道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦た大來目をして畝傍山の以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號するは、此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す。〔珍彥、此には于磐毗故と云ふ。〕又た弟猾に猛田邑を給ひ、因りて猛田縣主と爲す。是れ莵田主水部の遠祖なり。弟磯城名は黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根者を以て葛城國造と爲す。又た頭八咫烏も亦た賞例に入る。其の苗裔は卽ち葛野主殿縣主部是れなり。 謹んで按ずるに、是れ人皇行賞の始めなり。功有れば則ち賞祿有るは、君臣の禮なり。然れども其の功を定めざれば、則ち大小輕重正しからずして、賞其の道を失ふこと有り。故に功を定めて後に賞を行ふは、是れ世を明らかにするの事なり。帝初めて東征する間、策を奉じ戈を荷ひ、自ら難に當たる功臣・勇士、擧げて數ふべからず。今、行賞の始め、道臣命に在りて、頭八咫烏に及ぶ。其の功を定むるの道、大なるかな、公なるかな。〔以上、行賞の禮。〕
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『中朝事実』神治章・民を制し農を盡くし害を除く政崇神帝十二年春三月丁丑朔丁亥、詔す、朕、初めて天位を承け、宗廟を保つを獲たり。明は蔽ふ所有り、徳は綏んずる能はず。是を以て陰陽謬錯し、寒暑序を失ひ、疫病多く起こり、百姓災を蒙る。然るに今、罪を解き過ちを改め、神祇を敦礼し、亦敎を垂れて荒俗を綏んじ、兵を挙げて不服を討つ。是を以て官に廃事無く、下に逸民無く、教化流行し、衆庶業を楽しむ。異俗は重訳して来り、海外既に帰化す。宜しく此の時に当りて更に人民を校べ、長幼の次第、及び課役の先後を知らしむべし、と。秋九月甲辰朔己丑、始めて人民を校べ、更に調役を科す。此れを男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て天神地祇共に和享し、風雨時に順ひ、百穀用て成り、家給ち人足り、天下大いに平らかなり。故に称へて御肇国天皇と謂ふ。 謹んで按ずるに、是れ民の産を制するなり。既に庶く既に富めば、未だ嘗て教ふるに以てせずんばあらず。人皆欲有り。民とは其れ蠢爾なり。情有りて節を知らず、欲有りて制を知らず。故に唯だ之を養ひて制を加へざれば、則ち其の身を保つを得べからず。専ら之を戒めて養ふに以てせざれば、則ち恒心を得べからず。撫育教導互ひに持して、而る後に家に於いて給りて恥を知る所以なり。帝は養民を以て心とし、導民を以て教とす。始めて調賦の先後を制し、長幼の次序を教ふ。其の化大なるかな。〔以上、民の産を制す。〕 六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔して曰く、農は天下の大本なり。民の恃みて以て生くる所なり。今、河内の狭山の埴田は水少なし。是を以て其の国の百姓、農事に怠れり。其れ多く池溝を開きて以て民業を寛くせよ、と。冬十月、依網池を造る。十一月、苅坂池・反折池を作る。〔一に云ふ、天皇桑間宮に居し、是の三池を造ると。〕 謹んで按ずるに、是れ農の利を尽くすなり。百穀を利するは水より大なるは莫し。今、狭山及び三池を浚ふ。力を溝洫に尽くすこと此の如し。是より歴代因循し、水利を開き非常に備ふ。垂仁帝は池を諸国に作り、景行帝は相続きて力を竭し、百姓大いに富み、天下大いに平らかなり。竊かに按ずるに、外朝の周は農を以て国を為せし後、此れを重んずること、漢の文・景二帝に如くは莫し。文帝曰く、農は天下の大本なり、と。景帝曰く、農は天下の本なり、と。先儒曰く、文帝此の詔有ること凡そ三。景帝・武帝も亦皆是の言を以て詔の先に冠す、と。漢人は古を去ること未だ遠からず、猶ほ重んずる所を知るなり。今、帝の詔と更に異ならず。国に中外有りと雖も、民事を惓惓とするに至りては一なり。〔以上、農の利を尽くす。〕 仁徳帝十一年夏四月戊寅朔甲午、群臣に詔して曰く、今、朕、是の国を視るに、郊沢曠遠にして、田圃少乏し。且つ河水横に逝きて、流末駛からず。聊か霖雨に逢へば、海潮逆ひ上りて、巷里船に乗り、道路亦泥ぬ。故に群臣共に之を視て、横源を決めて海に通じ、逆流を塞ぎて以て田宅を全うせよ、と。冬十月、宮の北の郊原を掘り、南水を引きて西海に入る。因りて其の水を号けて掘江と曰ふ。又北河の澇を防がんとして、以て茨田堤を築く。是の時、両処の築有りて、乃ち壊れて塞ぎ難し。時に天皇、夢に神の誨ふる有り。其の堤を塞ぎ且つ成すを獲たり。 謹んで按ずるに、是れ民の害を除くなり。天地の間、民の害を為す者は、天に旱潦の災有り、地に河海の暴有り。人君、民の為にする有るに志せば、予め備へ先に謀りて、以て之が制を為せば、則ち其の災ひ殆ど遏むべし。是れ人心の精一にする所、物の以て勝つべき無し。既に其の害を除けば、則ち民の利は百倍なり。帝甚だ民生を以て要とし、河を開きて以て之を疏し、堤を築きて以て之を塞ぐ。民は子のごとく来たり、神は以て之を佑く。故に隄岸の崩るる無く、泉源の涸るる無く、沙土の淤る無く、畛域の失ふ無し。吁、其の徳大なるかな。其の後、大いに溝洫に力を尽くし、百姓寛饒にして、凶年の患無し。況んや橋路を為りて以て人民を利し、氷室を以て其の政を規改するをや。大いに乾霊の国を授けたまふ徳に答ふるなり。〔以上、民の害を除く。〕