智囊 / 小慧・竇義
潛於鍛爐作二支小鍤,利其刃。五月初,長安盛飛榆莢,義掃聚得斛餘,遂往諧伯所,借廟院習業。伯父從之,義夜則潛寄褒義寺法安上人院止,晝則往廟中,以二鍤開隙地,廣五寸,深五寸,共四十五條,皆長二十餘步,汲水濆之,布榆莢於其中。尋遇夏雨,盡皆滋長,比及秋,森然已及尺餘,千萬餘株矣。及明年,已長三尺餘,義伐其並者,相去各三寸,又選其條枝稠直者悉留之。所斲下者作圍束之,得百餘束。遇秋陰霖,每束鬻值十餘錢。又明年,汲水於舊榆溝中,至秋,榆已有大者如雞卵,更選其稠直者,以斧去之,又得二百餘束。此時鬻利數倍矣。後五年,遂取大者作屋椽,約千餘莖,鬻之,得三四萬錢。其端大之材在廟院者,不啻千餘,皆堪作車乘之用。此時生涯已有百餘,遂買麻布,雇人作小袋子。又買內鄉新麻鞋數百緉,不離廟中。
新字:潜於鍛炉作二支小鍤,利其刃。五月初,長安盛飛榆莢,義掃聚得斛余,遂往諧伯所,借廟院習業。伯父従之,義夜則潜寄褒義寺法安上人院止,昼則往廟中,以二鍤開隙地,広五寸,深五寸,共四十五条,皆長二十余歩,汲水濆之,布榆莢於其中。尋遇夏雨,尽皆滋長,比及秋,森然已及尺余,千万余株矣。及明年,已長三尺余,義伐其並者,相去各三寸,又選其条枝稠直者悉留之。所斲下者作囲束之,得百余束。遇秋陰霖,毎束鬻値十余銭。又明年,汲水於旧榆溝中,至秋,榆已有大者如鶏卵,更選其稠直者,以斧去之,又得二百余束。此時鬻利数倍矣。後五年,遂取大者作屋椽,約千余茎,鬻之,得三四万銭。其端大之材在廟院者,不啻千余,皆堪作車乗之用。此時生涯已有百余,遂買麻布,雇人作小袋子。又買内郷新麻鞋数百緉,不離廟中。
書き下し
潜かに鍛爐に於いて二支の小鍤を作り、其の刃を利くす。五月の初め、長安は盛んに飛榆莢あり、義は掃き聚めて斛余を得、遂に伯の所に往き、廟院を借りて業を習わんとす。伯父は之に従う、義は夜は則ち潜かに褒義寺の法安上人の院に寄りて止まり、昼は則ち廟中に往き、二鍤を以て隙地を開き、広さ五寸、深さ五寸、共に四十五条、皆な長さ二十余歩、水を汲みて之に濆ぎ、榆莢を其の中に布く。尋いで夏雨に遇い、尽く皆な滋長し、秋に及ぶ比には、森然として已に尺余に及び、千万余株なり。明年に及び、已に長さ三尺余、義は其の並ぶ者を伐り、相い去ること各ず三寸、又た其の条枝の稠直なる者を選びて悉く留む。斲り下ろす所の者は囲束を作り、百余束を得たり。秋陰霖に遇い、毎束鬻ぎて値十余銭。又た明年、水を旧き榆溝の中に汲み、秋に至りて、榆は已に大なる者は雞卵の如く、更に其の稠直なる者を選び、斧を以て之を去り、又た二百余束を得たり。此の時の鬻利は数倍なり。後五年、遂に大なる者を取りて屋椽と作し、約千余茎、之を鬻ぎ、三四万銭を得たり。其の端大の材の廟院に在る者は、千余に啻ならず、皆な車乗の用に堪う。此の時生涯は已に百余有り、遂に麻布を買い、人を雇いて小袋子を作らしむ。又た内郷の新麻鞋数百緉を買い、廟中を離れず。
現代語訳
竇義はひそかに鍛冶場で小さな鋤を二本作らせ、刃をよく研がせた。五月の初め、長安では楡の実がさかんに飛んだ。竇義はそれを掃き集めて一斛あまり得ると、伯父のところへ行き、廟院を借りて学問を習いたいと願い出た。伯父は許した。竇義は夜はひそかに褒義寺の法安上人の院に泊まらせてもらい、昼は廟院に行って、二本の鋤で空き地に溝を掘った。幅は五寸、深さ五寸で、全部で四十五本、どれも長さ二十歩あまりだった。水を汲んで注ぎ、楡の実をその中にまいた。そのうち夏の雨に遭って、みなすくすく育ち、秋になるころには、びっしりと一尺あまりになり、千万本あまりに達した。翌年には、すでに三尺あまりに伸び、竇義は並び合って生えている木を間引いて、各木の間隔を三寸にし、枝がよく茂ってまっすぐなものを選んで残した。切り落としたものは束にして、百束あまりになった。秋の長雨にあって、一束が十数銭で売れた。さらに翌年、水を古い楡の溝に汲み入れ、秋になると、楡の大きなものは鶏卵ほどの太さになった。さらに茂ってまっすぐなものを選んで、斧で他を切り去り、また二百束あまりを得た。このころの売り上げは数倍になった。五年後、ついに大きなものを選んで家の垂木にし、およそ千本余りを売り、三、四万銭を得た。端正で大きな木材で廟院にあるものは、千本をはるかに超え、みな車の用材にできるものになった。このころ、財産はすでに百余りに達した。そこで麻布を買い、人を雇って小さな袋を作らせた。さらに内郷の新しい麻の履物を数百足買い、廟院から離れずに過ごした。
解説
この章句が説くこと
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