智囊 / 雄略・冼氏
高涼冼氏,世為蠻酋,部落十餘萬家。有女,多籌略,羅州刺史馮融聘以為子寶婦。融雖世為方伯,非其土人,號令不行。冼氏約束本宗,使從民禮;參決詞訟,犯者雖親不赦。由是馮氏得行其政。高州刺史李遷仕遣使召寶,寶欲往,冼氏止之曰:「刺史被召援台,乃稱有疾,鑄兵聚眾而後召君,此必欲質君以發君之兵也!願且勿往,以觀其變。」數日,遷仕果反,遣主帥杜平虜將兵逼南康。陳霸先使周文育擊之,冼氏謂寶曰:「平虜今與官軍相拒,勢不得還;遷仕在州,無能為也,君若自往,必有戰鬥,宜遣使卑詞厚禮,告之曰:『身未敢出,欲遣婦參。』彼必喜而無備,我將千餘人步擔雜物,昌言輸賧,得至柵下,破之必矣。」寶從之,遷仕果不設備,冼氏襲擊,破走之。與霸先會於贛石,還謂寶曰:「陳都督非常人也,甚得眾心,必能平賊,宜厚資之。」及寶卒,嶺表大亂,夫人懷集百粵,數州宴然,共奉夫人為「聖母」。〔評〕智勇具足,女中大將。
新字:高涼冼氏,世為蠻酋,部落十余万家。有女,多籌略,羅州刺史馮融聘以為子宝婦。融雖世為方伯,非其土人,号令不行。冼氏約束本宗,使従民礼;参決詞訟,犯者雖親不赦。由是馮氏得行其政。高州刺史李遷仕遣使召宝,宝欲往,冼氏止之曰:「刺史被召援台,乃称有疾,鋳兵聚衆而後召君,此必欲質君以発君之兵也!願且勿往,以観其変。」数日,遷仕果反,遣主帥杜平虜将兵逼南康。陳覇先使周文育撃之,冼氏謂宝曰:「平虜今与官軍相拒,勢不得還;遷仕在州,無能為也,君若自往,必有戦鬥,宜遣使卑詞厚礼,告之曰:『身未敢出,欲遣婦参。』彼必喜而無備,我将千余人歩担雑物,昌言輸賧,得至柵下,破之必矣。」宝従之,遷仕果不設備,冼氏襲撃,破走之。与覇先会於贛石,還謂宝曰:「陳都督非常人也,甚得衆心,必能平賊,宜厚資之。」及宝卒,嶺表大乱,夫人懐集百粵,数州宴然,共奉夫人為「聖母」。〔評〕智勇具足,女中大将。
書き下し
高涼の冼氏は、世よ蛮酋で、部落は十余万家であった。女に多く籌略があった。羅州刺史の馮融は聘して子の宝の婦とした。融は世よ方伯であったが、その土人ではなく、号令が行われなかった。冼氏は本宗を約束して、民礼に従わせ、詞訟に参決し、犯す者は親しくとも赦さなかった。これによって馮氏は政を行うことができた。高州刺史の李遷仕が使を遣わして宝を召した。宝は往こうとしたが、冼氏はこれを止めて言った、「刺史は台を援けるよう召されながら、疾あると称し、兵を鑄て衆を聚めて後に君を召しました。これは必ず君を質として君の兵を発しようとするのです。願わくは且く往かず、その変を観なさい。」数日して、遷仕は果たして反し、主帥の杜平虜を遣わして兵を将いて南康に逼らせた。陳霸先は周文育をしてこれを撃たせた。冼氏は宝に謂って言った、「平虜はいま官軍と相拒み、勢いは還ることを得ません。遷仕は州にあって、能く為すことはありません。君がもし自ら往けば、必ず戦闘があります。使を遣わし卑詞厚礼で、『身はまだ敢えて出ない、婦に参らせようとする』と告げなさい。彼は必ず喜んで備えなく、我は千余人を将いて歩いて雑物を担い、昌言して賧を輸すと言い、柵下に至れば、これを破ることは必ずです。」宝はこれに従い、遷仕は果たして備えを設けず、冼氏は襲撃してこれを破走させた。霸先と贛石に会し、還って宝に謂って言った、「陳都督は非常の人です。甚だ衆心を得ており、必ず賊を平らげるでしょう。厚く資すべきです。」宝が卒するに及び、嶺表は大いに乱れたが、夫人は百粤を懐集し、数州は宴然とし、共に夫人を奉じて「聖母」とした。〔評〕智勇が具足し、女中の大将である。
現代語訳
高涼の冼氏は、代々蛮族の首長の家柄で、部落は十万戸あまりに及んだ。その娘は策略に富んでいた。羅州刺史の馮融が迎え入れて、子の宝の妻とした。融は代々州の長官を務める家柄だったが、土地の人ではなく、命令が行き届かなかった。冼氏は自分の一族を取り締まり、民の礼に従わせ、訴訟にも関与して、法を犯した者は親族であっても許さなかった。これによって馮氏は政治を行えるようになった。高州刺史の李遷仕が使者を遣わして宝を呼び出した。宝は行こうとしたが、冼氏はこれを止めて言った。「刺史は朝廷を救援するために召されたのに、病気と称して、武器を作り兵を集めた後に、あなたを呼んでいます。これはきっとあなたを人質にして、あなたの兵を動員しようとするのです。どうかしばらく行かず、様子を見てください。」数日して、遷仕はやはり反乱を起こし、部将の杜平虜に兵を率いて南康に迫らせた。陳霸先は周文育にこれを迎え撃たせた。冼氏は宝に言った。「平虜はいま官軍と対峙しており、戻ることはできません。遷仕は州の城にいますが、大したことはできません。あなたが自ら行けば、必ず戦闘になります。使者を遣わして、へりくだった言葉と厚い贈り物で、『自分はまだ出られないので、妻を代わりに参らせます』と告げなさい。彼はきっと喜んで備えを怠るでしょう。私は千人余りを率いて、徒歩で荷物を担ぎ、貢ぎ物を納めると公言して、柵のそばまで行けば、必ず破れます。」宝はこれに従い、遷仕は果たして備えを置かず、冼氏は襲撃してこれを破って敗走させた。霸先と贛石で会見し、帰って宝に言った。「陳都督は非凡な人です。多くの人心を得ており、必ず賊を平定するでしょう。手厚く援助すべきです。」宝が亡くなると、嶺南は大いに乱れたが、夫人は諸越の民を懐柔して集め、数州は安らかになり、人々は共に夫人を奉じて「聖母」と呼んだ。〔評〕智勇を兼ね備え、女性の中の大将である。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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