智囊 / 集哲・何無忌母・王珪母
何無忌夜於屏風裡草檄文,其母,劉牢之姊也,登凳密窺之,泣曰:「汝能如此,吾復何憂?」問所與謀者,曰:「劉裕。」母尤喜,因為言玄必敗,事必成,以示之。〔評〕既識大義,又能知人。王珪始隱居時,與房、杜善。母李氏嘗曰:「兒必貴,然未知所與游者何許人,試與偕來。」會玄齡等過其家,李窺見,大驚,敕具酒食,盡歡。喜曰:「二客公輔才,爾貴不疑。」見《新唐書》。一說,珪妻剪髮供客,窺坐上數公皆英俊,末及最少年虯髯者,曰:「汝等成名,皆因此人。」少年乃太宗也,杜子美有詩紀其事。
新字:何無忌夜於屏風裡草檄文,其母,劉牢之姊也,登凳密窺之,泣曰:「汝能如此,吾復何憂?」問所与謀者,曰:「劉裕。」母尤喜,因為言玄必敗,事必成,以示之。〔評〕既識大義,又能知人。王珪始隠居時,与房、杜善。母李氏嘗曰:「児必貴,然未知所与游者何許人,試与偕来。」会玄齢等過其家,李窺見,大驚,勅具酒食,尽歓。喜曰:「二客公輔才,爾貴不疑。」見《新唐書》。一説,珪妻剪髪供客,窺坐上数公皆英俊,末及最少年虯髯者,曰:「汝等成名,皆因此人。」少年乃太宗也,杜子美有詩紀其事。
書き下し
何無忌夜に屏風の裏に檄文を草す。其の母、劉牢之の姊なるもの、凳に登りて密かに之を窺い、泣きて曰く、「汝能く此の如くんば、吾れ復た何をか憂えん」と。与に謀る所の者を問えば、曰く、「劉裕」と。母は尤も喜び、因りて為に言う、玄は必ず敗れ、事は必ず成ると。以て之に示す。〔評〕既に大義を識り、又た能く人を知る。王珪は始め隠居せしとき、房、杜と善し。母の李氏嘗て曰く、「児は必ず貴からん。然れども未だ游ぶ所の者は何許の人なるかを知らず。試みに与に偕に来たれ」と。会々玄齢ら其の家に過り、李窺い見て大いに驚き、敕して酒食を具え、歓を尽くす。喜びて曰く、「二客は公輔の才なり。爾の貴きこと疑い無し」と。『新唐書』に見ゆ。一説に、珪の妻は髪を剪りて客に供し、坐上の数公は皆な英俊なるを窺い、末に及んで最も少き虯髯の者に、「汝等の名を成すは、皆な此の人に因る」と曰う。少年は乃ち太宗なり。杜子美に詩有りて其の事を紀す。
現代語訳
何無忌は夜、屏風の裏で檄文を起草した。その母は劉牢之の姉で、踏み台に登ってひそかにそれをのぞき見て、泣いて言った。「あなたがこのようにできるなら、私はもう何を心配しましょう」。ともに謀る者は誰かと尋ねると、「劉裕です」と答えた。母はいっそう喜び、桓玄は必ず敗れ、事は必ず成ると述べて、彼に示した。〔評〕すでに大義を知り、また人を見抜くことができる。王珪は初め隠居していたとき、房玄齢や杜如晦と親しかった。母の李氏はかつて言った。「息子は必ず貴くなるでしょう。ただ交遊している人がどのような人かを知りません。試しに連れておいでなさい」。ちょうど房玄齢らが家を訪れ、李氏はのぞき見て大いに驚き、酒食を用意させ、歓を尽くした。喜んで言った。「二人の客は宰相の器です。あなたの出世は疑いありません」。『新唐書』にみえる。一説では、珪の妻が髪を切って客をもてなし、座中の数人が皆優れていると見て、最後に最も若い虯髯の者に向かって、「あなた方が名を成すのは、みなこの人のおかげです」と言った。その少年は太宗であった。杜甫に詩があって、その事を記している。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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貞観政要・任賢王珪は、太原祁県の人なり。武徳中、隠太子中允と為り、甚だ建成の礼する所と為る。後に其の陰謀の事に連なるを以て、巂州(すいしゅう)に流さる。建成誅せられて後、太宗即位し、召して諫議大夫に拝す。毎に誠を推し節を尽くし、献納する所多し。珪嘗て封事を上りて切諫す。太宗謂いて曰く、「卿の論ずる所は皆な朕の失に中(あた)る。古より人君は社稷の永く安からんことを欲せざるは莫し。然り而して得ざる者は、只だ己が過ちを聞かざるが為なり。或いは聞きて改むる能わざるが故なり。今、朕に失う所有り、卿能く直言す。朕復た過ちを聞きて能く改む。何ぞ社稷の安からざるを慮らんや」と。太宗又た嘗て珪に謂いて曰く、「卿若し常に諫官に居らば、朕は必ず永く過失無からん」と。顧待益ます厚し。貞観元年、黄門侍郎に遷り、政事に参預し、兼ねて太子右庶子。二年、進みて侍中に拝せらる。時に房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑(たいちゅう)、珪と同じく国政を知る。嘗て宴に侍するに因り、太宗珪に謂いて曰く、「卿は識鑑精通し、尤も談論を善くす。玄齢等より、咸(みな)宜しく品藻すべし。又た自ら量るべし、孰(いず)れか諸子と賢なるか」と。対えて曰く、「孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣は玄齢に如かず。毎に諫諍を以て心と為し、君の堯・舜に及ばざるを恥ずるは、臣は魏徴に如かず。才は文武を兼ね、出でては将たり入りては相たるは、臣は李靖に如かず。敷奏詳明にして、出納惟れ允(まこと)なるは、臣は温彦博に如かず。繁を処し劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣は戴冑に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を嫉み善を好むに至りては、臣は数子に於いて、亦た一日の長有り」と。太宗深く其の言を然りとす。群公も亦た各々以て己が懐う所を尽くすと為し、之を確論と謂う。
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『智囊』集哲・崔敬女・絡秀唐の冀州長史吉懋、男の頊の為に南宮県丞崔敬の女を取らんと欲するも、敬許さず。故有るに因りて、脅して以て親を求め、敬懼れて之を許す。日を択びて函を下し、並びに花車卒然として門に至る。敬の妻鄭氏は初め知らず、女を抱きて大いに哭きて曰く、「我が家は門戸低く、曾て吉郎有らず」と。女堅く臥して起きず。其の小女其の母に白して曰く、「父に急難有り、身を殺して救解するも、設令い婢と為るも、尚お辞するに合わず。姓望の門、何ぞ恥と為すに足らん。姉若し可ならずんば、児自ら之に当たらん」と。遂に車に登りて去る。頊は後に貴くして相に拝せらる。周顗の母李氏、字は絡秀、少くして室に在り。顗の父濬は時に安東将軍たり、出猟に因りて雨に遇い、秀の家に止まる。会々秀の父兄出で、乃ち独り一婢と数十人の饌を具え、甚だ精腆なるも、寂として人声を聞かず。濬怪しみて之を覘い、秀の甚だ美なるを見、因りて求めて妾と為さんとす。父兄許さず。秀曰く、「門戸単寒なり、何ぞ一女を惜しまん。焉んぞ福に非ざるを知らん」と。濬に帰して、顗及び嵩、謨を生み、三子已に並びに貴顕す。秀謂いて曰く、「我が屈節して汝が門の妾と為りしは、門戸を計るのみ。汝我が家と親しみを為さざれば、吾れ亦た何ぞ余年を惜しまん」と。顗ら敬諾し、是より李氏遂に振う。〔評〕絶えて一毫の巾幗の気無し。「男を生んで喜ぶ勿れ、女を生んで悲しむ勿れ」、此の詩正に二女の為に詠ずるに堪えたり。
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『智囊』靈變・元伯顏・徐敬業弘正の間、胡世寧が江西を按察せし時、江西に盗起こる。方に剿を議するに、軍官来たりて謁す。適々世寧は他に出づ。乃ちその幼子の継に見ゆ。継曰く、「兵は素より習わず、豈に能く我が父に見えんや」と。軍官は跪きて教えを請う。継は乃ち進退離合の勢いを指示し、甚だ詳らかなり。凡そ三日にして、世寧は帰り、兵を閲して大いにこれを異とし、軍官を顧みて、これを辨ずる者は誰ぞ、若に教えし者はと問う。実を以て対う。継は初め書を読むに善からず、父は愚を以てこれを棄てしが、是に至りて歎じて曰く、「吾に子有るに自ら知らざるか」と。此れより賊を撃つ毎に、必ず継の方略に従う。世寧は十に三を失わず、継は十に一を失わず。世寧は上疏して、礼法を以て寧王を裁制せんことを乞う。継は跪きて曰く、「疏入らば、必ず重き禍あらん」と。聴かず、果たして獄に下る。継は因りて父を念い、病みて死す。世寧の母は独り哭かず、曰く、「この子在らば、当に賊と作るべし、胡氏は滅びん」と。この母も亦た大いに見識有り。
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『智囊』雄略・劉知遠妻・李景讓母劉智遠は晋陽に至り、民財を率いて将士に賞することを議した。夫人李氏は諫めて言った、「陛下は河東に因って大業を創められましたが、まだ恵沢が民に及んでおらず、先にその生資を奪うのは、おそらく新天子が民を救う意に非ざるものです。請う、軍中の所有を悉く出して労軍されよ。重ねて厚くなくとも、人に怨言はないでしょう。」智遠はこれに従い、中外は大いに悦んだ。唐の李景譲の母鄭氏は、性が厳明であった。景譲が宦達し、髪はすでに斑白であったが、小さな過ちがあれば捶楚を免れなかった。その浙西観察使となったとき、牙将に意に逆らう者があり、これを杖して斃した。軍中は憤怒し、変を為そうとした。母はこれを聞き、出でて庁事に坐し、景譲を庭に立たせてこれを責めて言った、「天子は汝に方面を付した。どうして国家の刑法を喜怒の資とし、妄りに無罪を殺してよいか。万一、一方の不寧を致せば、豈に唯だ上は朝廷に負くのみならず、垂老の母をして羞を含んで地に入らせ、何を以て汝の先人に見えようか。」左右に命じてその衣を褫がせ、その背を撻とうとした。将佐は皆これを請い、久しくして釈した。軍中は遂に安んじた。〔按〕鄭氏は早く寡となり、家は貧しく子は幼く、母が自らこれを教えた。宅の後ろの牆が陥ち、銭が船に盈ちるほど得た。母はこれを祝して言った、「吾は聞く、労なくして獲るのは、身の災いであると。天がもし我が貧を矜れむなら、願わくは諸孤が学問を成すことを。これは敢えて取らぬ。」遽かにこれを掩って築いた。婦人の中の大見識の者である。景譲の弟の景荘は、場屋に老いた。黜けられるたびに、母は輒ち景譲を撻った。この事は笑うべきであるが、景譲は終に主司に属することを肯んぜず、言った、「朝廷が士を取るのは、自ずから公道がある。どうして人に倣って関節を求めてよいか。」義方に漸ること深かったのである。
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『智囊』集哲・潘炎妻潘炎侍郎は、徳宗の時に翰林学士と為り、恩渥極めて異なり。妻は劉晏の女なり。京兆の謁見を求めて得ざるもの有り、閽者に三百縑を賂す。夫人之を知り、潘に謂いて曰く、「人臣と為りて、京兆尹の願わくは一たび謁見せんとし、奴に三百縑を遺る。其の危うきこと知るべきなり」と。潘公に位を避けんことを勧む。子の孟陽は初め戸部侍郎と為るに、夫人憂惕して、謁して曰く、「爾の人材を以て、丞郎の位に在り。吾れ禍の必ず至らんことを懼る」と。戸部解喩すること再三、乃ち曰く、「試みに爾の同列を会せよ。吾れ之を観ん」と。因りて遍く客を召し至らしめ、夫人簾を垂れて之を観る。会を罷むるに既みて、喜びて曰く、「皆な爾の儔なり、憂うるに足らず」と。末座の慘緑少年は何人かと問えば、曰く、「補闕杜黄裳」と。夫人曰く、「此の人は全く別なり。必ず是れ名ある卿相ならん」と。
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『智囊』靈變・元伯顏・徐敬業乃顔の反するを告ぐる者有り。詔して伯顔にこれを窺覘せしむ。乃ち多く衣裘を載せて、その境に入り、輒ち以て駅人に与う。既に至るや、乃顔は為に宴を設け、執えんことを謀る。伯顔は覚り、その従者と趨り出で、三道に分かれて逸れ去る。駅人は衣裘を得たるを以ての故に、争いて健馬を献じ、遂に脱するを得たり。徐敬業は十余歳にして、弾射を好む。英公は毎に曰く、「この児は相善からず、将に我が族を赤せんとす」と。嘗て猟に因り、敬業に命じて林に入りて獣を趁わしめ、因りて風に乗じて火を縦ち、意に殺さんと欲す。敬業は避くる所無きを知り、遂に馬の腹を屠りてその中に伏す。火過ぎて、血に浴して立てば、英公はこれを大いに奇とす。〔述評〕凡そ子弟の跅鍮の奇を負う者は、才を恃みて検せず、往往にして家門の禍と為る。敬業の破轅の兆しの如きは、童年に見る。英公は明らかにその族の祟りたるを知りながら、竟にこれを除く能わず、豈に終に其の才智を惜しめるか。抑も英公は武氏を立つることを勧め、唐の子孫を殺すこと殆ど尽くせり、天は故に敬業を以てこれに酬いしならん。諸葛恪に異才有り、その父瑾は歎じて曰く、「この子は大いに我が宗を昌んにせずんば、将に我が族を赤せん」と。その後、果たして逆を以て誅せらる。隋の楊智積は文帝の姪なり。五男有るも、ただ《論語》《孝経》を読むことを教え、賓客に通ぜしめず。或いは故を問えば、答えて曰く、「多く書を読み、広く交遊すれば、才は是に由りて益す。才有れば亦た能く禍を産む」と。人はその識に服す。
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