貞観政要 / 任賢
王珪,太原祁縣人也,武德中,為隱太子中允,甚為建成所禮。後以連其陰謀事,流於巂州。建成誅後,太宗即位,召拜諫議大夫。每推誠盡節,多所獻納。珪嘗上封事切諫,太宗謂曰:「卿所論皆中朕之失,自古人君莫不欲社稷永安,然而不得者,只為不聞己過,或聞而不能改故也。今朕有所失,卿能直言,朕復聞過能改,何慮社稷之不安乎?」太宗又嘗謂珪曰:「卿若常居諫官,朕必永無過失。」顧待益厚。貞觀元年,遷黃門侍郎,參預政事,兼太子右庶子。二年,進拜侍中。時房玄齡、魏徵、李靖、溫彥博、戴胄與珪同知國政,嘗因侍宴,太宗謂珪曰:「卿識鑒精通,尤善談論,自玄齡等,咸宜品藻。又可自量孰與諸子賢?」對曰:「孜孜奉國,知無不為,臣不如玄齡。每以諫諍為心,恥君不及堯、舜、臣不如魏徵。才兼文武,出將入相,臣不如李靖。敷奏詳明,出納惟允,臣不如溫彥博。處繁理劇,眾務必舉,臣不如戴胄。至如激濁揚清,嫉惡好善,臣於數子,亦有一日之長。」太宗深然其言,群公亦各以為盡己所懷,謂之確論。
新字:王珪,太原祁県人也,武徳中,為隠太子中允,甚為建成所礼。後以連其陰謀事,流於巂州。建成誅後,太宗即位,召拝諫議大夫。毎推誠尽節,多所献納。珪嘗上封事切諫,太宗謂曰:「卿所論皆中朕之失,自古人君莫不欲社稷永安,然而不得者,只為不聞己過,或聞而不能改故也。今朕有所失,卿能直言,朕復聞過能改,何慮社稷之不安乎?」太宗又嘗謂珪曰:「卿若常居諫官,朕必永無過失。」顧待益厚。貞観元年,遷黄門侍郎,参預政事,兼太子右庶子。二年,進拝侍中。時房玄齢、魏徴、李靖、温彦博、戴胄与珪同知国政,嘗因侍宴,太宗謂珪曰:「卿識鑒精通,尤善談論,自玄齢等,咸宜品藻。又可自量孰与諸子賢?」対曰:「孜孜奉国,知無不為,臣不如玄齢。毎以諫諍為心,恥君不及堯、舜、臣不如魏徴。才兼文武,出将入相,臣不如李靖。敷奏詳明,出納惟允,臣不如温彦博。処繁理劇,衆務必舉,臣不如戴胄。至如激濁揚清,嫉悪好善,臣於数子,亦有一日之長。」太宗深然其言,群公亦各以為尽己所懐,謂之確論。
書き下し
王珪は、太原祁県の人なり。武徳中、隠太子中允と為り、甚だ建成の礼する所と為る。後に其の陰謀の事に連なるを以て、巂州(すいしゅう)に流さる。建成誅せられて後、太宗即位し、召して諫議大夫に拝す。毎に誠を推し節を尽くし、献納する所多し。珪嘗て封事を上りて切諫す。太宗謂いて曰く、「卿の論ずる所は皆な朕の失に中(あた)る。古より人君は社稷の永く安からんことを欲せざるは莫し。然り而して得ざる者は、只だ己が過ちを聞かざるが為なり。或いは聞きて改むる能わざるが故なり。今、朕に失う所有り、卿能く直言す。朕復た過ちを聞きて能く改む。何ぞ社稷の安からざるを慮らんや」と。太宗又た嘗て珪に謂いて曰く、「卿若し常に諫官に居らば、朕は必ず永く過失無からん」と。顧待益ます厚し。貞観元年、黄門侍郎に遷り、政事に参預し、兼ねて太子右庶子。二年、進みて侍中に拝せらる。時に房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑(たいちゅう)、珪と同じく国政を知る。嘗て宴に侍するに因り、太宗珪に謂いて曰く、「卿は識鑑精通し、尤も談論を善くす。玄齢等より、咸(みな)宜しく品藻すべし。又た自ら量るべし、孰(いず)れか諸子と賢なるか」と。対えて曰く、「孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣は玄齢に如かず。毎に諫諍を以て心と為し、君の堯・舜に及ばざるを恥ずるは、臣は魏徴に如かず。才は文武を兼ね、出でては将たり入りては相たるは、臣は李靖に如かず。敷奏詳明にして、出納惟れ允(まこと)なるは、臣は温彦博に如かず。繁を処し劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣は戴冑に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を嫉み善を好むに至りては、臣は数子に於いて、亦た一日の長有り」と。太宗深く其の言を然りとす。群公も亦た各々以て己が懐う所を尽くすと為し、之を確論と謂う。
現代語訳
王珪は、太原祁県の人である。武徳年間、隠太子の中允となり、建成に厚く礼遇された。後に建成の陰謀に連座して、巂州に流された。建成が誅殺された後、太宗が即位すると、召し出して諫議大夫とした。常に誠を尽くし節義を尽くし、進言することが多かった。王珪はかつて上奏文を奉って切に諫めた。太宗は言った。「あなたの論じることは、みな私の欠点を突いている。昔から君主で、国が永く安らかであることを望まない者はいない。それなのに実現できないのは、ただ自分の過ちを聞かないからだ。あるいは聞いても改められないからだ。今、私に欠点があり、あなたは直言してくれる。私は過ちを聞いて改められる。どうして国が安らかでないことを心配しようか」。太宗はまた言った。「あなたがずっと諫官の職にいてくれれば、私は永久に過失を犯すまい」。厚遇はますます増した。貞観元年、黄門侍郎に移り、政事に参与し、太子右庶子を兼ねた。二年、侍中に進んだ。当時、房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑が、王珪とともに国政を執っていた。ある宴席で、太宗が王珪に言った。「あなたは人物鑑識に精通し、とりわけ議論がうまい。玄齢たちを、みな評してみよ。また自分を量って、この人々と比べてどうか言ってみよ」。王珪は答えた。「ひたすら国に奉じ、知って行わないことがない点では、臣は玄齢に及びません。常に諫めることを心とし、君主が堯舜に及ばないことを恥じる点では、臣は魏徴に及びません。才は文武を兼ね、出ては将、入っては宰相となる点では、臣は李靖に及びません。上奏が詳しく明快で、出納が正確な点では、臣は温彦博に及びません。繁雑な事務を処理し、あらゆる仕事を成し遂げる点では、臣は戴冑に及びません。ただ、濁りを退けて清らかさを揚げ、悪を憎み善を好む点では、臣もこの数人に対して、いささか一日の長がございます」。太宗は深くその言葉に同意した。同席の重臣たちもみな、自分の思いを言い当てられたと感じ、正確な評価だと讃えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 孟嘗君列伝先生の言を聞く、敢へて教へを奉ぜざらんや」と。
-
説苑・尊賢魏の文侯大夫に曲陽に觴す。飲酣にして、文侯喟然として歎じて曰く、「吾独り豫譲以て臣と為す無し」と。蹇重酒を挙げて進みて曰く、「臣請う君に浮せん」と。文侯曰く、「何を以てか」と。対えて曰く、「臣之を聞く、命有るの父母は孝子を知らず、道有るの君は忠臣を知らずと。夫れ豫譲の君は、亦何如なる哉」と。文侯曰く、「善し」と。浮を受けて之を飲み、嚼みて譲らず。曰く、「管仲鮑叔以て臣と為す無きが故に、豫譲の功有るなり」と。趙簡子曰く、「吾范中行氏の良臣を得んと欲す」と。史黶曰く、「安んぞ之を用いんや」と。簡子曰く、「良臣は、人の願う所なり、又何ぞ問わんや」と。曰く、「君以て良臣無きが故なり。夫れ君に事うる者は、過ちを諫めて可を薦め、善を章かにして否を替え、能を献じて賢を進む。朝夕善を誦し、敗るれば之を納れ、聴かるれば則ち進み、否らざれば則ち退く。今范中行氏の良臣は、其の君を匡相する能わずして、難に至らしむ。出でて外に在り、又入る能わず。亡びて之を棄つ、何ぞ良と為さん。若し棄てずんば、君安んぞ之を得ん。夫れ良将は其の君を営みて、其の位に復さしめ、死して而る後に止む、何ぞ来たると曰わんや。若し未だ能わずんば、乃ち良に非ざるなり」と。簡子曰く、「善し」と。
-
『晏子春秋』諫上・景公飲酒七日不納弦章之言晏子諫景公酒を飲み、七日七夜止まず。弦章諫めて曰く、「君酒を飲むこと七日七夜、章願わくは君酒を廃せんことを。然らずんば、章死を賜わらん」と。晏子入り見ゆ。公曰く、「章吾を諫めて曰く、『願わくは君の酒を廃せんことを、然らずんば章死を賜わらん』と。是くの如くにして之を聴かば、則ち臣の制を為すなり。聴かざれば、又其の死を愛しむ」と。晏子曰く、「幸いなるかな、章の君に遇えるや。章をして桀・紂に遇わしめば、章の死すること久しからん」と。是に於いて公遂に酒を廃す。
-
史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
-
五行大義・第十四論雑配・第六論五事上を犯す者誅せられざれば、則ち草霜を犯して死せず。百姓の財を貪り取れば、則ち蝗螟(こうめい)も亦人の食を食う。此れ皆視の象る所なり。聴は耳に在り。耳は、易に於いて坎なり。古者(いにしえ)聖王には進善の旌(はた)、敢諫の鼓有り、蒭蕘(すうじょう)に謀る。博く延き広く聴く所以なり。人君謀を好まざれば、則ち下敢えて言う莫し。下敢えて言う莫ければ、則ち上聞く所無し。上聞く所無ければ、則ち聴かず。聴かざる者は、政事を謀らざるに由る。故に曰く、聴かず、と。庶事を聞知する所無く、擁屈して怨み心口に在り、喜怒節ならず。故に曰く、急なり、と。夫れ寒は物を急にす。冬の物は皆枯急す。枯急す、故に曰く、厥の罰は常寒、と。常寒なれば、則ち百穀を生ぜず。百穀を生ぜざれば、則ち民貧窮す。故に妖は耳に生ず。類を以て相動けば、則ち鼓妖有り。声音の類なり。坎は彘(てい)たり。耳の気傷るれば、彘禍有り。水の色は黒、黒交有り。此れ皆聴なり。思は、心は五事の主たり、猶お土の体の五行の主たるがごときなり。易に於いては坤たり。八正の気も、亦八風に起こる。風は四時の主なり。思心得る、これを容と謂う。容は能く臣子を容畜す、故にこれを聖と謂うなり。思心得ざれば、四者皆失い、則ち臣子を容畜すること能わず。故に曰く、思心容れざる、是れを不聖と謂う、と。過ちは霿乱(ぼうらん)して紀を失うに在り。故に風は、易に於いて巽なり。三月・四月に在り、純陽なり。而して陽に治まれば、則ち陰たり、陰に於いては、則ち陽たり。大臣の象なり。君既に霿乱すれば、則ち大臣専恣す。大臣専恣して陰気盛んなり。陰気盛んなれば、則ち応ず。故に厥の罰は常風なり。陰気多き者は、陰りて雨ふらず。その甚だしきや、常陰なり。暗とは、心に苞承す。心気傷るれば、則ち暗妖と為る。易に曰く、坤は牛たり、と。坤は土なり。土気傷るれば、則ち牛多く死す。又曰く、土は内事たり、内事乱るれば、則ち華孽(かげつ)有り、と。此れ皆思の事なり。五事の感ずる所、その例甚だ多し。略して挙ぐること此の如し。
-
『春秋左氏伝』昭公二十八年 小人の腹を以て君子の心と為す冬、梗陽の人獄有り。魏戊斷ずる能はず、獄を以って上る。其の大宗、賂ふに女樂を以ってす。魏子將に之を受けんとす。魏戊、閻沒(えんぼつ)・女寬(じょかん)に謂ひて曰く、「主は賄せざるを以って諸侯に聞こゆ。若し梗陽の人を受けば、賄焉より甚だしきは莫し。吾子必ず諫めよ」と。皆許諾す。朝より退きて庭に待つ。饋(き)入りて之を召す。置くに比(およ)びて三たび歎ず。既に食して坐せしむ。魏子曰く、「吾諸を伯叔に聞く、諺に曰く、『唯だ食のみ憂ひを忘る』と。吾子食を置くの間に三たび歎ずるは、何ぞや」と。辭を同じくして對へて曰く、「或ひと二小人に酒を賜ひ、夕食せず。饋の始めて至るや、其の足らざらんことを恐る。是を以って歎ず。中ば置くに自ら咎めて曰く、『豈に將軍之に食ましむるに、而も足らざる有らんや』と。是を以って再び歎ず。饋の畢(を)はるに及び、願はくは小人の腹を以って、君子の心と為し、屬厭(しょくえん)するのみならんことを」と。獻子、梗陽の人を辭す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る