智囊 / 詭道・宇文泰
高歡督諸軍伐魏。遣司徒高昂趣上洛,竇泰趣潼關。歡軍蒲阪,造三浮橋欲渡河。宇文泰軍廣陽,謂諸將曰:「賊犄吾三面作浮橋,以示必渡。此欲綴吾軍,使竇泰西入耳。歡自起兵以來,竇泰常為前鋒,其下多銳卒,屢勝而驕,今襲之必克。克泰,則歡不戰自走矣。」諸將皆曰:「賊在近,舍而襲遠,脫有蹉跎,悔何及也?不如分兵御之。」泰曰:「歡再攻潼關,吾軍不出壩上。今大舉而來,謂吾亦當自守,有輕我之心。乘此襲之,何患不克?賊雖作浮橋,未能徑渡。不過五日,吾取竇泰必矣。」乃聲言欲保隴右,而潛軍東出,至小關。竇泰猝聞軍至,自風陵渡河。宇文泰擊破之,士眾皆盡,竇泰自殺,傳首長安。
新字:高歓督諸軍伐魏。遣司徒高昂趣上洛,竇泰趣潼関。歓軍蒲阪,造三浮橋欲渡河。宇文泰軍広陽,謂諸将曰:「賊犄吾三面作浮橋,以示必渡。此欲綴吾軍,使竇泰西入耳。歓自起兵以来,竇泰常為前鋒,其下多鋭卒,屡勝而驕,今襲之必克。克泰,則歓不戦自走矣。」諸将皆曰:「賊在近,舎而襲遠,脱有蹉跎,悔何及也?不如分兵御之。」泰曰:「歓再攻潼関,吾軍不出壩上。今大舉而来,謂吾亦当自守,有軽我之心。乗此襲之,何患不克?賊雖作浮橋,未能径渡。不過五日,吾取竇泰必矣。」乃声言欲保隴右,而潜軍東出,至小関。竇泰猝聞軍至,自風陵渡河。宇文泰撃破之,士衆皆尽,竇泰自殺,伝首長安。
書き下し
高歓、諸軍を督して魏を伐つ。司徒高昂を遣わして上洛に趣かしめ、竇泰を潼関に趣かしむ。歓は蒲阪に軍し、三つの浮橋を造りて河を渡らんと欲す。宇文泰、広陽に軍し、諸将に謂いて曰く、「賊、吾が三面に犄して浮橋を作り、以て必ず渡るを示す。此れ吾が軍を綴め、竇泰をして西に入らしめんと欲するのみ。歓、兵を起こしてより以来、竇泰は常に前鋒たり、其の下には鋭卒多く、屡々勝ちて驕れり。今之を襲わば必ず克たん。泰に克たば、則ち歓は戦わずして自ら走らん」と。諸将皆な曰く、「賊は近きに在り、舎きて遠きを襲う。もし蹉跎有らば、悔ゆとも何ぞ及ばん。兵を分かちて之を御ぐに如かず」と。泰曰く、「歓は再び潼関を攻めしも、吾が軍は壩上を出でず。今大挙して来るは、吾も亦た当に自ら守るべしと謂い、我を軽んずるの心有ればなり。此に乗じて之を襲わば、何ぞ克たざるを患えん。賊、浮橋を作ると雖も、未だ径ちに渡る能わず。五日に過ぎずして、吾が竇泰を取ること必せり」と。乃ち声して隴右を保たんと欲すと言い、潜かに軍を東に出だし、小関に至る。竇泰、猝かに軍の至るを聞き、風陵より河を渡る。宇文泰、擊ちて之を破り、士衆皆な尽き、竇泰は自殺し、首は長安に伝えらる。
現代語訳
高歓は諸軍を指揮して西魏を討った。司徒の高昂を上洛に向かわせ、竇泰を潼関に向かわせた。高歓自身は蒲阪に軍を置き、三つの浮橋を造って黄河を渡ろうとした。宇文泰は広陽に軍を置き、諸将に言った。「敵はわが軍を三方から挟むようにして浮橋を作り、必ず渡ると見せている。これはわが軍を釘付けにして、竇泰を西へ進ませたいだけだ。高歓が兵を起こして以来、竇泰はいつも先鋒で、その配下には鋭い兵が多く、たびたび勝って驕っている。今これを襲えば必ず勝てる。竇泰に勝てば、高歓は戦わずに自ら逃げ出すだろう。」諸将はみな言った。「敵は近くにいるのに、それを捨てて遠くを襲うのです。もし失敗があれば、悔いても間に合いません。兵を分けて防ぐのがよいでしょう。」宇文泰は言った。「高歓は以前二度潼関を攻めたが、わが軍は壩上から出なかった。今、大軍で来たのは、わが軍がまた守りに徹すると思い、侮る心があるからだ。そこを突いて襲えば、勝てないはずがない。敵が浮橋を作っても、すぐには渡れない。五日とかからず、わしが竇泰を討つのは確実だ。」そこで、隴右を守るつもりだと言いふらしながら、ひそかに軍を東へ出し、小関に至った。竇泰は突然わが軍が来たと聞き、風陵から黄河を渡った。宇文泰は攻めてこれを破り、兵は全滅し、竇泰は自殺して、その首は長安に送られた。
解説
この章句が説くこと
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史記 南越列伝使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
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