智囊 / 詭道・朱雋・周亞夫
黃巾賊十萬人據宛。朱雋圍之,起土山以臨城內,鳴鼓攻其西南,賊悉眾赴西南,雋自將精兵五千,掩東北。遂乘城而入。太尉周亞夫擊吳、楚,堅壁不戰。吳兵乏糧,數挑戰,終不出。後吳奔壁東南陬,太尉使備西北,已而精兵果奔西北,不得入。〔評〕合觀二條,可識用兵之變。
新字:黄巾賊十万人拠宛。朱雋囲之,起土山以臨城内,鳴鼓攻其西南,賊悉衆赴西南,雋自将精兵五千,掩東北。遂乗城而入。太尉周亜夫撃呉、楚,堅壁不戦。呉兵乏糧,数挑戦,終不出。後呉奔壁東南陬,太尉使備西北,已而精兵果奔西北,不得入。〔評〕合観二条,可識用兵之変。
書き下し
黄巾の賊十万人、宛に拠る。朱雋、之を囲み、土山を起こして以て城内に臨み、鼓を鳴らして其の西南を攻む。賊悉く衆を挙げて西南に赴く。雋、自ら精兵五千を将い、東北を掩う。遂に城に乗じて入る。太尉周亜夫、呉・楚を撃つに、壁を堅くして戦わず。呉兵、糧に乏しく、数々挑むも、終に出でず。後、呉、壁の東南の隅に奔る。太尉、西北を備えしむ。已にして精兵、果たして西北に奔るも、入るを得ず。〔評〕二条を合わせ観れば、兵を用うるの変を識るべし。
現代語訳
黄巾の賊十万人が宛に立てこもった。朱雋は城を包囲し、土山を築いて城内を見下ろし、太鼓を鳴らして西南の側を攻めた。賊はことごとく兵を出して西南に駆けつけた。そこで雋は自ら精兵五千を率いて東北を襲い、そのまま城壁に乗って城内に入った。太尉の周亜夫が呉・楚の反乱軍を撃ったとき、陣営の守りを固めて戦わなかった。呉の兵は食糧が乏しくなり、何度も挑発したが、亜夫は出なかった。のちに呉軍は陣営の東南の隅に殺到した。亜夫は西北の備えを固めさせた。しばらくして、果たして精兵が西北に殺到したが、中に入れなかった。〔評〕この二条を合わせて見れば、兵を用いる変化の仕方がわかる。
解説
この章句が説くこと
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