智囊 / 制勝・楊銳
楊銳守備九江、安慶諸郡,既獲江賊,監司喜,公曰:「江賊何足憂,所虞者豫章耳!」意指宸濠也。又謂九江為鄱陽上流,不可恃,湖最要害,當以九江中左所一旅,置戍於湖口縣之高嶺,可以遠望,有警即可達。乃繪圖呈南部及各台,又請造戰艦若干艘,習水戰於江上。城中治兵食,多濬井。聞寧濠變作,先引軍設鉤距於江側,禁勿泄,比寇至,船二百餘艘抵岸,為鉤距所破。寇攻城後敗去,濠泊船南岸,聞不克,大怒,率眾分攻五門,各首舉木為蔽,甚急,公裂帛布覆紙裹火藥千數,散投所蔽木上,火發,盡棄走,火光周匝不絕,寇無所遁。寇復於北濠結木為棧,與城接,挾兵而進。城中大驚,公曰:「事急矣!」乃詭以「大將軍」火銃實石被緋,金鼓迎置城上,寇兵望見,驚懼未進。潛使一卒從間道出,燒棧絕。寇眾解結,且溽暑,力憊,夜鼾睡去。公募善泅者數人,於船中聞鼾聲即斬首,絕其纜,放之中流;又遣一二強卒,突入岸上營,舉火炮,城上應之,乘勝捕殺。聲震數里,濠浩歎出涕,舉帆順風而返。〔注〕安慶不守,則陽明之功不成,故以楊銳附陽明之後。
新字:楊鋭守備九江、安慶諸郡,既獲江賊,監司喜,公曰:「江賊何足憂,所虞者予章耳!」意指宸濠也。又謂九江為鄱陽上流,不可恃,湖最要害,当以九江中左所一旅,置戍於湖口県之高嶺,可以遠望,有警即可達。乃絵図呈南部及各台,又請造戦艦若干艘,習水戦於江上。城中治兵食,多濬井。聞寧濠変作,先引軍設鉤距於江側,禁勿泄,比寇至,船二百余艘抵岸,為鉤距所破。寇攻城後敗去,濠泊船南岸,聞不克,大怒,率衆分攻五門,各首舉木為蔽,甚急,公裂帛布覆紙裹火薬千数,散投所蔽木上,火発,尽棄走,火光周匝不絶,寇無所遁。寇復於北濠結木為棧,与城接,挟兵而進。城中大驚,公曰:「事急矣!」乃詭以「大将軍」火銃実石被緋,金鼓迎置城上,寇兵望見,驚懼未進。潜使一卒従間道出,焼棧絶。寇衆解結,且溽暑,力憊,夜鼾睡去。公募善泅者数人,於船中聞鼾声即斬首,絶其纜,放之中流;又遣一二強卒,突入岸上営,舉火炮,城上応之,乗勝捕殺。声震数里,濠浩嘆出涕,舉帆順風而返。〔注〕安慶不守,則陽明之功不成,故以楊鋭附陽明之後。
書き下し
楊銳、九江、安慶の諸郡を守備す。既に江賊を獲て、監司喜ぶも、公曰く、「江賊は何ぞ憂うるに足らん。虞る所は豫章のみ」と。意は宸濠を指す。又謂う、九江は鄱陽の上流にして、恃むべからず。湖は最も要害なり。當に九江中左所の一旅を以て、戍を湖口縣の高嶺に置くべし。以て遠望すべく、警有らば即ち達すべし、と。乃ち圖を繪いて南部及び各台に呈し、又、戰艦若干艘を造り、水戰を江上に習わんことを請う。城中は兵食を治め、多く井を濬う。寧濠の變作るを聞き、先ず軍を引いて鉤距を江側に設け、泄らす勿きを禁ず。寇至るに比び、船二百餘艘、岸に抵るも、鉤距の破る所と為る。寇、城を攻めて後に敗れ去る。濠は南岸に船を泊し、克たざるを聞き大いに怒り、眾を率いて五門を分攻す。各々首ずから木を舉げて蔽と為し、甚だ急なり。公、帛布を裂き、紙もて火藥を裹むこと千數、所蔽の木の上に散投す。火發し、盡く棄てて走る。火光周匝して絕えず、寇、遁るる所無し。寇、復た北濠に於いて木を結びて棧と為し、城と接し、兵を挾みて進む。城中大いに驚く。公曰く、「事急なり」と。乃ち詭りて「大將軍」の火銃に石を實たし緋を被せ、金鼓もて迎えて城上に置く。寇兵、望見して驚懼し、未だ進まず。潛かに一卒をして間道より出でて棧を燒き絕たしむ。寇眾、結を解き、且つ溽暑にして力憊れ、夜に鼾睡して去る。公、善く泅ぐ者數人を募り、船中に鼾聲を聞かば即ち首を斬り、其の纜を絕ち、之を中流に放たしむ。又、一二の強卒を遣わし、突として岸上の營に入り、火炮を舉げしめ、城上之に應ず。勝に乘じて捕殺し、聲は數里に震う。濠、浩歎して涕を出だし、帆を舉げて風に順いて返る。〔注〕安慶守らざれば則ち陽明の功成らず。故に楊銳を以て陽明の後に附す。
現代語訳
楊鋭は九江と安慶の諸郡の守備を担当していました。江上の賊を捕らえたので、監察官は喜びましたが、楊鋭は言いました。「江上の賊など憂えるに足りません。私が恐れるのは豫章だけです」。その意味は宸濠を指していました。また、九江は鄱陽湖の上流にあり、頼りにならない、湖は最も要害であると言いました。九江の中左所の一部隊を使って、湖口県の高嶺に守備を置くべきだ。そうすれば遠くまで見渡せ、警報があればすぐ伝えられる、と述べました。そこで図を描いて南京の兵部や各役所に提出し、さらに戦艦をいくつか造り、江上で水戦を練習させることを願いました。城中では兵糧を整え、多くの井戸を掘りました。寧王濠の反乱が起きたと聞くと、まず軍を率いて川岸に鉤距を設け、口外を禁じました。賊が来たとき、船二百余隻が岸に着きましたが、鉤距に破られました。賊は城を攻めた後、敗れて去りました。宸濠は南岸に船を停めて、勝てないと聞いて大いに怒り、兵を率いて五つの門を分けて攻めました。各自が木を持ち上げて盾とし、猛烈な攻勢でした。楊鋭は布を裂いて紙で火薬を包んだものを千以上作り、盾の木の上に投げ散らしました。火が発し、賊はすべて投げ捨てて逃げました。炎の光があたりを巡って絶えず、賊は逃れる所がありませんでした。賊はまた北の堀に木を組み合わせて桟橋を作り、城に接して兵を抱えて進んできました。城中は大いに驚きました。楊鋭は「事は急だ」と言い、偽って「大将軍」の火銃に石を詰め、赤い布をかぶせて、鐘と太鼓で迎えて城上に置きました。賊兵はこれを見て驚き恐れ、進めませんでした。ひそかに一人の兵を間道から出して桟橋を焼き断たせました。賊の兵は結んだものを解き、蒸し暑さで力も尽き、夜に鼾をかいて眠り込みました。楊鋭は泳ぎのうまい者数人を募り、船の中で鼾が聞こえたらすぐ首を斬り、縄を断って船を川の流れに放たせました。さらに強い兵一二人を遣わし、突然岸の陣営に入って火砲を上げさせ、城上がこれに応じました。勝ちに乗じて捕らえ殺し、声は数里に響きました。宸濠は深くため息をついて涙を流し、帆を揚げて風に従って帰りました。〔注〕安慶が守られなければ、王陽明の功は成らなかった。だから楊鋭を王陽明の後に付した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
-
『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
-
『春秋左氏伝』襄公九年 宋の大火と天道九年春、宋災あり。樂喜、司城と為り、以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は、小屋を徹し、大屋を塗り、畚挶(ほんきょく)を陳ね、綆缶(かうふ)を具へ、水器を備へ、輕重を量り、水潦を蓄へ、土塗を積み、丈城を巡り、守備を繕ひ、火道を表す。華臣をして正徒を具へしめ、隧正に令して郊保を納れ、火所に奔らしむ。華閱をして右官を討めしめ、官ごとに其の司を庀(をさ)めしむ。向戌をして左を討めしむること、亦た之の如し。樂遄をして刑器を庀めしむること、亦た之の如し。皇鄖をして校正に命じて馬を出さしめ、工正に車を出さしめ、甲兵を備へ、武守を庀めしむ。西鉏吾をして府守を庀めしめ、司宮・巷伯に令して宮を儆めしむ。二師、四鄉の正に令して敬んで享せしむ。祝宗、馬を四墉に用ゐ、盤庚を西門の外に祀る。晉侯、士弱に問ひて曰く、「吾之を聞く、宋災あり、是に於てか天道有るを知ると。何の故ぞ」と。對へて曰く、「古の火正は、或いは心に食し、或いは咮(ちう)に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と為し、心を大火と為す。陶唐氏の火正閼伯(あつはく)、商丘に居りて大火を祀り、而して火もて時を紀す。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人、其の禍敗の釁(きざし)を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり」と。公曰く、「必すべきか」と。對へて曰く、「道に在り。國亂れて象無ければ、知るべからざるなり」と。
-
孟子・離婁章句下孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徙る可し。」
-
史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
-
説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る