智囊 / 制勝・劉錡
〔朱晦庵曰〕順昌之役,正值暑天。劉錡分部下兵五千為五隊,先備暑藥,飲酒食肉。以一副兜牟與甲,曬之日下,時令人以手摸,看熱如火不可著手,乃換一隊。軍至,令吃酒飯;少定,與暑藥。遂各授兵出西門戰,少頃,又換一隊,出南門,如此數隊,分門迭出送入,虜遂大敗。緣虜眾多,其立無縫,僅能操戈,更轉動不得;而我兵執斧直入人叢,掀其馬甲以斷其足,一騎才倒,即壓數騎,殺傷甚眾。虜人至是方有怯中國之意,遂從和議耳。
新字:〔朱晦庵曰〕順昌之役,正値暑天。劉錡分部下兵五千為五隊,先備暑薬,飲酒食肉。以一副兜牟与甲,曬之日下,時令人以手摸,看熱如火不可著手,乃換一隊。軍至,令吃酒飯;少定,与暑薬。遂各授兵出西門戦,少頃,又換一隊,出南門,如此数隊,分門迭出送入,虜遂大敗。縁虜衆多,其立無縫,僅能操戈,更転動不得;而我兵執斧直入人叢,掀其馬甲以断其足,一騎才倒,即圧数騎,殺傷甚衆。虜人至是方有怯中国之意,遂従和議耳。
書き下し
〔朱晦庵曰く〕順昌の役、正に暑天に値たる。劉錡、部下の兵五千を分かちて五隊と為し、先ず暑薬を備え、酒を飲ませ肉を食らわしむ。一副の兜牟と甲を以て、日下に曬し、時に人をして手を以て摸せしめ、熱きこと火の如く著くべからざるを看て、乃ち一隊を換う。軍至れば、酒飯を吃らしめ、少し定まれば暑薬を与え、遂に各々兵を授けて西門より出て戦う。少頃、又一隊を換え、南門より出ず。此の如く数隊、門を分かちて迭に出で送り入れ、虜遂に大いに敗る。虜の衆多きに縁り、其の立つこと縫無く、僅かに戈を操るのみ、更に転動するを得ず。而るに我が兵は斧を執りて直ちに人叢に入り、其の馬甲を掀げて以て其の足を断つ。一騎才かに倒るれば、即ち数騎を圧し、殺傷甚だ衆し。虜人此に至りて方に中国を怯るるの意有り、遂に和議に従うのみ。
現代語訳
〔朱熹(晦庵)が言うには〕順昌の戦いは、ちょうど暑い季節にあたっていた。劉錡は部下の兵五千を五つの隊に分け、まず暑気あたりの薬を用意し、酒を飲ませ肉を食べさせた。一組のかぶとと鎧を日なたにさらし、ときどき人に手で触らせて、火のように熱くて着けられないのを確かめて、そこで一隊を入れ替えた。軍が到着すれば、酒と飯を食べさせ、少し落ち着いたら暑さ止めの薬を与え、それぞれに武器を渡して西門から出て戦わせた。しばらくすると、また別の隊に入れ替え、南門から出した。このように数隊が、門を分けて交代で出ては戻り、金軍はついに大敗した。金軍は人数が多いために、立っている隙間がなく、わずかに戈を操るだけで、それ以上動けなかった。我が兵は斧を持ってそのまま人混みに入り、馬の鎧をめくって足を断った。一騎が倒れるとすぐに数騎を押しつぶし、殺傷はたいへん多かった。金人はここに至ってようやく中国を恐れる気持ちが生まれ、和議に従うことになったのである。
解説
この章句が説くこと
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孫子・行軍篇卒未だ親附せずして之を罰すれば、則ち服せず、服せざれば則ち用い難きなり。卒已に親附して罰行われざれば、則ち用うべからざるなり。
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『智囊』武案・劉錡劉錡の順昌の戦、甲士に戒めて一つの竹筒を帯びしむ。其の中に煮豆を実たし、陣に入れば則ち竹筒を割き棄て、狼藉として其の豆を下に散らす。虜の馬飢え、豆の香を聞きて、頭を低れて之を食う。又た多く竹筒の為に滾され、脚下に地を得ず。故を以て士馬倶に斃る。〔述〕畢再遇は嘗て敵を引きて与に戦い、且つ前み且つ却くこと、数四に至る。日の已に晩るるを視て、乃ち香料もて黒豆を煮て地上に布く。復た前みて搏戦し、佯り敗走す。敵は勝ちに乗じて追逐す。其の馬已に飢え、豆の香を聞きて、就きて食う。之を鞭うちても前まず。我が師反って之を攻め、遂に大いに勝つ。
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『智囊』制勝・劉錡已にして二人は果たして其の言の如くす。兀術大いに喜び、即ち鵝車・炮具を置いて用いず。翌日、錡城に登り、二人の来るを望み見て、縋りて之を上らしむ。乃ち敵、成らに械して来り帰すなり。文書一巻を以て械の上に係く。錡、軍を惑わすを懼れ、立ちどころに之を焚く。兀術城下に至り、諸将を譴責す。諸将皆曰く、「南朝の用兵は昔に非ず。元帥臨みて城を自ら見よ」と。適々錡、耿訓を遣わして戦いを請わしむ。兀術怒って曰く、「劉錡何ぞ敢えて吾と戦わんや。吾が力を以て爾の城を破るは、直ちに靴尖を用いて趯倒するのみ」と。訓曰く、「太尉は但だ太子と戦わんことを請うのみならず、且つ太子は必ず敢えて河を済らずと謂う。願わくは浮橋五所を献じ、済りて大いに戦わん」と。遅明、錡果たして浮橋五を河上に為り、敵用いて以て済る。錡、人を遣わして潁の上流及び草中に毒せしめ、軍士に戒めて、渇死すと雖も河に飲む毋かれ、飲む者は其の族を夷せんとす。時に大暑にして、敵は遠く来りて、昼夜甲を解かず。錡の軍は番休して羊馬垣の下に更々食らう。而して敵の人馬は飢渇し、飲食水草する者は輒ち病む。方に晨気清涼なるも、錡は兵を按じて動かず。未申の間に逮び、敵の気已に索く。忽ち数百人を遣わして西門より出で接戦せしむ。俄かに数千人を以て南門より出で、戒めて喊ぶ勿からしめ、但だ鋭斧を以て之を犯さしむ。敵大いに敗れ、兀術遂に営を抜きて北へ去る。是の役や、錡の兵は二万に盈たず、出戦するは僅かに五千。金兵は数十万、営は西北にあり、亙ること十五里、暮ごとに鼓声谷を震わせ、営中喧嘩して終夜声有り。而して我が城中は粛然として鶏犬を聞かず。唯だ能く逸を以て労を待ち、是を以て大勝す。
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『智囊』制勝・劉錡劉錡、東京に官に赴く。渦口に至り、方に食らうとき、忽ち暴風が坐帳を抜く。錡曰く、「此れ賊の兆なり、暴兵を主る」と。即ち下令して兼程して進む。金人が盟に敗れて南下し、已に東京を陥すを聞く。錡は将佐と舟を捨てて陸行し、急ぎ趨りて順昌に至る。知府陳規、錡を見て計を問う。錡、城中に米万斛有るを詢知し、乃ち議して兵を斂めて城に入り、守禦の計を為す。諸将、金は敵すべからずと謂い、精鋭を以て老稚を遮りて流れに順いて江南に還らんことを請う。錡曰く、「東京は失うと雖も、幸いに軍を全うして此に至り、守るべき城有り。奈何ぞ之を棄てんや。敢えて去ると言う者は斬る」と。家を寺中に置き、薪を門に積み、守る者を戒めて曰く、「脱し不利なる有らば、即ち吾が家を焚け」と。乃ち諸将に分命して諸門を守らしめ、斥堠を明らかにし、土人を募りて間諜と為す。是に於いて軍士皆奮う。時に守備は一も恃むべきもの無し。錡、車輪・轅を取りて城上に埋め、又民戸の扉を撤して、周匝して之を蔽うを督す。凡そ六日にして、粗ぼ畢わる。而して金兵は已に城下に至れり。初め錡は城に傅きて羊馬垣を築き、垣に穴して門と為す。是に至りて垣を蔽いて陣と為し、金人矢を縦つに、皆垣の端より軼ぎて城に著き、或いは止まりて垣の上に中る。錡、破敵弓を用い、翼くるに神臂・強弩を以てし、城上、或いは垣門より敵を射るに、中たらざる無し。
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『智囊』制勝・劉錡敵稍や卻くや、即ち歩兵を以て邀撃し、河水に溺れて死する者無算なり。金兵、砦を二十里に移す。錡、閻充を遣わして壮士五百人を募り、夜に其の営を斲たしむ。是の夕、天雨ふらんと欲し、電光四もに起こり、辮髪の者を見れば輒ち之を殲す。金兵復た退くこと十五里。錡復た百人を募りて以て往かしめ、折竹を命じて器と為す。市井の児が以て戯れと為すが如きもの、人ごとに一を持ちて以て号と為し、直ちに金営を犯す。電一たび閃けば則ち奮撃し、電止めば則ち匿れて動かず。敵衆大いに乱れ、百人の者は吹声を聞いて聚まる。兵此に至りて神なり。金人益々測る能わず。終夜自ら戦い、積屍野に盈つ。兀術は汴に在りて之を聞き、即ち靴を索め馬に上り、十万の衆を帥いて来り援く。諸将謂う、「宜しく方に勝つの勢いに乗じ、舟を具えて軍を全うして帰るべし」と。錡曰く、「敵営は甚だ邇く、而も兀術又来る。吾が軍一たび動かば、彼其の後を躡み、則ち前功は倶に廃せん」と。錡、曹成ら二人を募り得て、之に諭して曰く、「汝を遣わして間と作さしむ。事捷たば重く賞せん。第だ吾が言の如くせよ。敵は必ず汝を殺さじ。今、汝を綽路騎の中に置く。汝敵に遇わば、則ち佯りて馬より墜ち、敵の得る所と為れ。敵帥、我が何如なる人かと問わば、則ち曰え、『平辺帥の子にして、声妓を喜ぶ。朝廷、両国の講好を以て、東京を守らしめ、逸楽を図るのみ』と」。
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『智囊』武案・岳飛・劉錡兀朮に勁兵有り、皆な重鎧にして、貫くに韋索を以てし、三人を聯と為し、名づけて拐子馬と曰い、又た長勝軍と号す。戦酣なる時に於いて、毎に用いて以て堅を攻め、官軍当たる能わず。郾城の役、万五千騎を以て来る。岳飛、兵に戒め、麻紮刀を率いて陣に入り、仰ぎ視ること勿く、但だ馬足を斲らしむ。拐子馬は相連なり、一馬僕るれば二馬行く能わず、官軍奮撃して、大いに之を敗る。〔述評〕慕容紹宗、兵十万を引きて侯景を撃つ。旗甲は日に耀き、鼓を鳴らして長駆して進む。景、戦士に命じ皆な甲を被り、短刀を執り、東魏の陣に入らしむ。但だ低く視て、人の脛と馬の足を斲らしむ。飛は古法を学ばざれども、豈に暗に合せんや。兀朮に牙兵有り、皆な重鎧甲にして、鉄兜牟を戴き、周匝に長簷を綴り、三人を伍と為し、貫くに韋索を以てし、鉄浮図と号す。順昌の役、方に大いに戦う時、兀朮は白袍を被り、甲馬に乗り、三千人を以て来る。劉錡、壮士をして槍標を以て其の兜牟を去らしめ、大斧もて其の臂を断ち、其の首を砕く。
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