智囊 / 制勝・劉錡
已而二人果如其言,兀術大喜,即置鵝車炮具不用。翌日,錡登城,望見二人來,縋而上之,乃敵械成等來歸,以文書一卷係於械上,錡懼惑軍,立焚之。兀術至城下,譴責諸將,諸將皆曰:「南朝用兵非昔比,元帥臨城自見。」適錡遣耿訓請戰,兀術怒曰:「劉錡何敢與吾戰?以吾力破爾城,直用靴尖趯倒耳!」訓曰:「太尉非但請與太子戰,且謂太子必不敢濟河,願獻浮橋五所,濟而大戰。」遲明,錡果為五浮橋於河上,敵用以濟。錡遣人毒潁上流及草中,戒軍士雖渴死,毋飲於河,飲者夷其族。時大暑,敵遠來,晝夜不解甲,錡軍番休更食羊馬垣下,而敵人馬飢渴,飲食水草者輒病。方晨氣清涼,錡按兵不動。逮未申間,敵氣已索,忽遣數百人,出西門接戰。俄以數千人出南門,戒令勿喊,但以銳斧犯之。敵大敗,兀術遂拔營北去。是役也,錡兵不盈二萬,出戰僅五千人;金兵數十萬,營西北,亙十五里,每暮,鼓聲震山谷,營中喧嘩,終夜有聲;而我城中肅然不聞雞犬,唯能以逸待勞,是以大勝。
新字:已而二人果如其言,兀術大喜,即置鵝車炮具不用。翌日,錡登城,望見二人来,縋而上之,乃敵械成等来帰,以文書一巻係於械上,錡懼惑軍,立焚之。兀術至城下,譴責諸将,諸将皆曰:「南朝用兵非昔比,元帥臨城自見。」適錡遣耿訓請戦,兀術怒曰:「劉錡何敢与吾戦?以吾力破爾城,直用靴尖趯倒耳!」訓曰:「太尉非但請与太子戦,且謂太子必不敢済河,願献浮橋五所,済而大戦。」遅明,錡果為五浮橋於河上,敵用以済。錡遣人毒潁上流及草中,戒軍士雖渇死,毋飲於河,飲者夷其族。時大暑,敵遠来,昼夜不解甲,錡軍番休更食羊馬垣下,而敵人馬飢渇,飲食水草者輒病。方晨気清涼,錡按兵不動。逮未申間,敵気已索,忽遣数百人,出西門接戦。俄以数千人出南門,戒令勿喊,但以鋭斧犯之。敵大敗,兀術遂抜営北去。是役也,錡兵不盈二万,出戦僅五千人;金兵数十万,営西北,亙十五里,毎暮,鼓声震山谷,営中喧嘩,終夜有声;而我城中粛然不聞鶏犬,唯能以逸待労,是以大勝。
書き下し
已にして二人は果たして其の言の如くす。兀術大いに喜び、即ち鵝車・炮具を置いて用いず。翌日、錡城に登り、二人の来るを望み見て、縋りて之を上らしむ。乃ち敵、成らに械して来り帰すなり。文書一巻を以て械の上に係く。錡、軍を惑わすを懼れ、立ちどころに之を焚く。兀術城下に至り、諸将を譴責す。諸将皆曰く、「南朝の用兵は昔に非ず。元帥臨みて城を自ら見よ」と。適々錡、耿訓を遣わして戦いを請わしむ。兀術怒って曰く、「劉錡何ぞ敢えて吾と戦わんや。吾が力を以て爾の城を破るは、直ちに靴尖を用いて趯倒するのみ」と。訓曰く、「太尉は但だ太子と戦わんことを請うのみならず、且つ太子は必ず敢えて河を済らずと謂う。願わくは浮橋五所を献じ、済りて大いに戦わん」と。遅明、錡果たして浮橋五を河上に為り、敵用いて以て済る。錡、人を遣わして潁の上流及び草中に毒せしめ、軍士に戒めて、渇死すと雖も河に飲む毋かれ、飲む者は其の族を夷せんとす。時に大暑にして、敵は遠く来りて、昼夜甲を解かず。錡の軍は番休して羊馬垣の下に更々食らう。而して敵の人馬は飢渇し、飲食水草する者は輒ち病む。方に晨気清涼なるも、錡は兵を按じて動かず。未申の間に逮び、敵の気已に索く。忽ち数百人を遣わして西門より出で接戦せしむ。俄かに数千人を以て南門より出で、戒めて喊ぶ勿からしめ、但だ鋭斧を以て之を犯さしむ。敵大いに敗れ、兀術遂に営を抜きて北へ去る。是の役や、錡の兵は二万に盈たず、出戦するは僅かに五千。金兵は数十万、営は西北にあり、亙ること十五里、暮ごとに鼓声谷を震わせ、営中喧嘩して終夜声有り。而して我が城中は粛然として鶏犬を聞かず。唯だ能く逸を以て労を待ち、是を以て大勝す。
現代語訳
やがて二人は、果たして言われたとおりにしました。兀術は大いに喜び、鵝車(攻城車)や投石機をしまって使いませんでした。翌日、劉錡は城に登り、二人が来るのを遠くから見て、縄で引き上げさせました。すると敵は曹成らに枷をはめて送り返してきたのでした。文書一巻が枷に結ばれていました。劉錡は軍の動揺を恐れ、すぐにそれを焼きました。兀術は城下に来て、諸将を叱責しました。諸将は皆言いました。「南朝の用兵は昔とは違います。元帥が自ら城をご覧ください」。ちょうど劉錡は耿訓を遣わして戦いを申し込ませました。兀術は怒って言いました。「劉錡がどうして私と戦えるのか。私の力でお前の城を破るのは、靴の先で蹴り倒すくらいのものだ」。耿訓は言いました。「太尉は太子と戦いたいと願うだけでなく、太子は必ず黄河を渡れまいとも言っています。浮橋を五か所献上しますから、渡って大いに戦いましょう」。夜明けに、劉錡は果たして五つの浮橋を河に造り、敵はそれを使って渡りました。劉錡は人を遣わして潁水の上流や草むらに毒を入れさせ、兵士に戒めました。「喉が渇いて死んでも河の水を飲むな。飲んだ者は一族を皆殺しにする」。そのとき大変な暑さで、敵は遠くから来て、昼夜甲冑を脱いでいませんでした。劉錡の軍は交代で休み、羊馬垣の下で順番に食事をとりました。敵の人馬は飢えと渇きで、飲食したり水草を口にしたりすると病気になりました。明け方の涼しい時刻でも、劉錡は兵を抑えて動きませんでした。午後の未の刻から申の刻になる頃、敵の気力はすでに尽きていました。突然数百人を西門から出して接戦させました。まもなく数千人を南門から出し、喊声を上げさせず、ただ鋭い斧で敵に当たらせました。敵は大いに敗れ、兀術はついに陣を引き払って北へ去りました。この戦いでは、劉錡の兵は二万に満たず、出撃したのはわずか五千でした。金軍は数十万で、陣は西北にあり、十五里にわたり、夕方ごとに太鼓の音が谷を震わせ、陣中は騒がしく一晩中声が絶えませんでした。一方、我が城中は静まり返って鶏や犬の声も聞こえませんでした。ただ余力をもって疲れた敵を待ち、それによって大勝したのです。
解説
この章句が説くこと
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『政談』諸役人に器量を選ふ事当時の治めは余りに人の押へ扣へ特の外に過きたり、唯々子供の守をする如く下たる人をあてかひて悪事をさせぬやうなし、ことの方をは一々に差図をして何事も上へ伺ひて勤むる故、智恵を出たすことは入らぬなり、唯々子供を使ふ如く下を使ふこと是上たる人の智恵にて済むことを覚ゆる、斯の如き世界なる故人々己れか才智を出さす、左れは才智ある人も才智をは出たさす、才智なき人は才智の付くへきやうなし、人の撰みは只立廻り利口にて、上の気に逆からぬやうに物云ひよく、何事も念の入て上へ伺ふ人を何役をも仕落なく勤むへき人々と思ふ、斯の如くなれは下たる人は何事も上へもたれ居て、身を踏み込むことは曽て之なき筈のことなり、
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説苑・雜言孔子曰く、「船は水に非ざれば行く可からず、水船中に入れば、則ち其れ没す。故に曰く、君子は厳ならざる可からざるなり、小人は閉ざさざる可からざるなり」と。
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『墨子』備城門老小の事とせざる者をして城上に守らしむ。術に當たらざる者なり。城、持ちて出づるには必ず眀填を為り、吏民をして皆な之を智知せしむ。一人より百人以上に従うも、持ちて出でて填章を操らざれば、人に従うも亦た故人に非ざれば、乃ち亦た稹章あるなり。千人の将以上、之を止め、行くを得しむる勿かれ。行きて吏卒、之に従わば、皆な斬り、具に以て上に聞す。此れ守城の重禁なり。夫れ姦の生ずる所、審らかにせざる可からざるなり。
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