智囊 / 不戰・趙充國
遂西至西部都尉府,日饗軍士,士皆欲為用。虜數挑戰,充國堅守。初罕開豪靡當兒使弟雕庫來告都尉曰:「先零將反。」後數日,果反。雕庫種人頗在先零中,都尉即留雕庫為質。充國以為亡罪,遣歸告種豪:「大兵誅有罪,毋取並滅,能相捕斬者,除罪:斬大豪有罪者一人,賜錢四十萬,中豪十五萬,下豪二萬,大男三千,女子及老小千錢。又以所捕妻子財物與之。」欲以威信招降罕開及劫略者,解散虜謀。酒泉太守辛武賢上言:「今虜朝夕為寇,土地寒苦,漢馬不能冬,可益馬食,以七月上旬齎三十日糧,分兵並出張掖、酒泉,合擊罕開。」天子下其議,充國以為:「駝負三十日食,又有衣裝兵器,難以追逐。據前險,守後阨,以絕糧道,必有傷危之患。且先零首為畔逆,宜捐罕開闇昧之過,先誅先零以震動之。」朝議謂:」先零兵盛而負罕開之助,不先破罕開,則先零未可圖。」
新字:遂西至西部都尉府,日饗軍士,士皆欲為用。虜数挑戦,充国堅守。初罕開豪靡当児使弟雕庫来告都尉曰:「先零将反。」後数日,果反。雕庫種人頗在先零中,都尉即留雕庫為質。充国以為亡罪,遣帰告種豪:「大兵誅有罪,毋取並滅,能相捕斬者,除罪:斬大豪有罪者一人,賜銭四十万,中豪十五万,下豪二万,大男三千,女子及老小千銭。又以所捕妻子財物与之。」欲以威信招降罕開及劫略者,解散虜謀。酒泉太守辛武賢上言:「今虜朝夕為寇,土地寒苦,漢馬不能冬,可益馬食,以七月上旬齎三十日糧,分兵並出張掖、酒泉,合撃罕開。」天子下其議,充国以為:「駝負三十日食,又有衣装兵器,難以追逐。拠前険,守後阨,以絶糧道,必有傷危之患。且先零首為畔逆,宜捐罕開闇昧之過,先誅先零以震動之。」朝議謂:」先零兵盛而負罕開之助,不先破罕開,則先零未可図。」
書き下し
遂に西のかた西部都尉府に至り、日々軍士を饗し、士は皆用を為さんことを欲す。虜は数々戦いを挑むも、充国は堅く守る。初め、罕開の豪靡当児は弟の雕庫をして都尉に告げしめて曰く、「先零将に反せんとす。」と。後数日にして、果たして反す。雕庫の種人は頗る先零の中に在り、都尉は即ち雕庫を留めて質と為す。充国は罪なしと以為い、遣わし帰して種豪に告げしむ、「大兵は罪ある者を誅す、並び滅ぼさるるを取るなかれ。能く相捕らえ斬る者は、罪を除く。大豪の罪ある者を斬る一人には、銭四十万を賜い、中豪は十五万、下豪は二万、大男は三千、女子及び老小は千銭。また捕らえる所の妻子財物を以てこれに与えん。」と。威信を以て罕開及び劫略せられし者を招降し、虜の謀を解散せしめんと欲す。酒泉太守辛武賢は上言す、「今、虜は朝夕に寇を為し、土地は寒苦にして、漢馬は冬を能くせず。馬食を益し、七月上旬を以て三十日の糧を齎し、兵を分かち張掖、酒泉より並び出でて、合して罕開を撃つべし。」と。天子はその議を下す。充国は以為らく、「駝は三十日の食を負い、また衣装兵器あり、以て追逐し難し。前の険に据り、後の阨を守り、以て糧道を絶てば、必ず傷危の患あらん。かつ先零は首として畔逆を為す、宜しく罕開の闇昧の過ちを捐て、先ず先零を誅して以てこれを震動すべし。」と。朝議は謂う、「先零は兵盛んにして罕開の助けを負う。先ず罕開を破らざれば、則ち先零は未だ図るべからず。」と。
現代語訳
こうして西のかた西部都尉府に至り、毎日兵士をもてなしたので、兵士は皆役に立ちたいと願った。賊はたびたび戦いを挑んだが、趙充国は堅く守った。はじめ、罕開の首領靡当児は弟の雕庫を遣わして都尉に告げさせた。「先零がまもなく反乱します。」数日後、果たして反乱した。雕庫の同族の多くは先零の中にいたので、都尉は雕庫を留めて人質にした。趙充国は雕庫に罪はないと見て、帰して種族の首領たちに告げさせた。「大軍は罪のある者を誅する。皆とも滅ぼされるようなことをするな。互いに捕らえて斬る者は罪を除く。罪のある大首領を一人斬れば銭四十万、中首領は十五万、下の首領は二万、成人男子は三千、女子や老人子どもは千銭を賜う。さらに捕らえた者の妻子や財物も与える。」威信によって、罕開と脅されて略奪に加わった者を招き降し、賊の謀を崩そうとした。酒泉太守の辛武賢は上奏した。「いま賊は朝夕に略奪を働き、土地は寒く厳しく、漢の馬は冬を越せません。馬の飼料を増やし、七月上旬に三十日分の食糧を持って、兵を分けて張掖と酒泉から同時に出て、合わせて罕開を撃つべきです。」天子はこの議を下に諮った。趙充国は考えた。「駱駝は三十日分の食糧を背負い、さらに衣類や兵器もあり、追撃には適しません。前方の険しい所に拠り、後方の難所を守って糧道を絶てば、必ず損害と危険の憂いがあります。また先零は真っ先に反逆した者です。罕開の事情が曖昧な過ちは棚上げして、まず先零を誅してこれを震え上がらせるべきです。」朝廷の議論は言った。「先零は兵が盛んで罕開の助けを頼みにしている。先に罕開を破らなければ、先零は図れない。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『政談』江戶町中並に武家屋敷の締りの事総して武家屋敷も元来一組を一町に置たることなり、大御番十二組にて番町一番町より六番町まで各々表裏これあり、古は飯田町の上に土手これあるなり、御番衆に与力同心も元来一組一町にあつまり居たることなり、されども役ぬけ御番入り小ぶしん入りより混乱し、特に権威ある人屋敷をえり取りにする故此の法乱れ、今は同組所々に分れ居るやうになりたるなり、これによりて別御役別組の人となりと成り、武家の人から内証の事知るべきやうなし、一町の内のことは家内の微細なることまで何事も知れざることは悪しき事なり、微細に知るれども他役他組の人なれば、一屋敷の面々こうにて、武家ことのほかに我まゝになり、諸事とりしまりなく、埓もなくなりたること、これによりてなり、ことにかろき同心のたくひの一組のうちをひきわけて牛込本郷離れ〳〵にさし置くこと、そのもの平生何をするかも同組も知らぬことにて吟味すべきやうなし、願ふ所は古法の通り御番衆も与力同心も一くみを一所に置き、その頭をも一所に置き、役入り番入り等のとき入り替るやうにするときは、組下の人抦も何も委細に知るゝことにて、盗賊奉行などの下の悪事を知ぬやうなることは決してなきことなり、
-
史記 匈奴列伝東胡初め冒頓を軽んじ、備へを為さず。冒頓兵を以て至り、撃つに及びて、大いに東胡王を破滅し、而して其の民人及び畜産を虜にす。既に帰りて、西のかた月氏を撃ち走らせ、南のかた楼煩・白羊の河南王を并す。燕代を侵し、悉く復た秦の蒙恬をして匈奴より奪はしめし所の地を収め、漢と故の河南の塞を関とし、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。是の時漢の兵項羽と相距ぎ、中国兵革に罷る。故を以て冒頓自ら彊くするを得、控弦の士三十余万。淳維より以て頭曼に至るまで千有余歳、時に大きく時に小さく、別散分離すること、尚し。其の世伝得て次すべからずと云ふ。然れども冒頓に至りて匈奴最も彊大にして、尽く北夷を服従せしめ、而して南のかた中国と敵国と為る。其の世伝国官の号乃ち得て記すべしと云ふ。左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯を置く。匈奴は賢を謂ひて「屠耆」と曰ふ。故に常に太子を以て左屠耆王と為す。左右の賢王より以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰ふ。諸大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り。此の三姓は其の貴種なり。諸々の左方の王将は東方に居り、上谷に直りて以往なる者は、東のかた穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡に直りて以西は、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直る。各々分地有り、水草を逐ひて移徙す。而して左右の賢王・左右の谷蠡王最も大為り。左右の骨都侯政を輔く。諸々の二十四長も亦各々自ら千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。歳の正月、諸長小しく単于の庭に会し、祠る。
-
『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・これを散ずれば明なりこれを集むれば暗なり私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして、一愚人の事を行なうものと言うべし。あに怪しまざるを得んや。畢竟その然る所以は、かの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民を御し、その知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強ゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容を作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるには、ただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
-
『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事何役にも頭役添役下役留役と四段に立てゝ、或は軽き役には添役を除きて、三段にも立て、或は特の外に軽き役は添役下役を除きて一段にも立て置き、頭役は是非ともに一人にすれはその役のこと締り我々にならす、身に踏込みて勤めで叶はさることなり、添役は一人或は両人頭役に僅か一階ほと下にて、さのみは劣らぬものを申し付置く時は、相談の相手にも成り、又目付にもなり、又病気差合のときもこと欠けず、下役は添役に一階も下なる人を二人なりと三人四人なりとも役儀によりて五人六人も申し付け置く時は、其役儀のこと品を別けて掌とりて丁寧なり、留役は軽き役にて、一役のことを帳にかき留さすへし、されは頭役は惣〆くゝりとなりて重きことを掌り、又惣しめをするなり、下役は細かなるかと〳〵を品を別けて掌とる故、をの〳〵身にかけてつとめ身に入ること是れ古の法なり、
-
司馬法・定爵将は身なり、卒は支(し)なり、伍は指拇(しぼ)なり。
-
『智囊』制勝・李牧李牧は、趙の北辺の良将なり。嘗て雁門に居て匈奴に備う。便宜を以て吏を置き、市租は皆幕府に輸入して士卒の費と為す。日々牛を擊ちて士を饗し、騎射を習わせ、烽火を謹み、間諜を多くし、戦士を厚遇す。約を為して曰く、「匈奴が即ち入りて盗まば、急ぎ入りて収保せよ。敢えて捕虜する者あらば斬る。」と。かくの如くすること数歳、匈奴は牧を以て怯と為し、趙の辺兵もまた吾が将は怯なりと以う。趙王は李牧を譲む。牧は故の如し。趙王は怒り、これを召して他人をして代わりて将たらしむ。歳余にして、匈奴は来る毎に、出でて戦えば数々利あらず、失亡多く、辺は田畜するを得ず。乃ち復た李牧を請う。牧は固く疾と称す。趙王は強いてこれを起こす。牧曰く、「必ず臣を用いんとせば、臣は前の如くして、乃ち令を奉ずべし。」と。王はこれを許す。李牧は故の約の如くす。匈奴は歳を終うるまで得る所なく、然るに終に以て怯と為す。辺士は日々賞賜を得て用いられず、皆一戦を願う。ここにおいて乃ち車を選び具え、千三百乗を得、騎を選びて万三千匹、百金の士五万人、彀者十万人、悉く勒して戦いを習わす。大いに畜牧を縦ち、人民野に満つ。匈奴は小しく入るに、佯り北げ、数千を以てこれに委ぬ。単于はこれを聞き、大いに衆を率いて来り入る。牧は多く奇陣を為し、左右の翼を張りてこれを撃ち、大いに破り、匈奴の十余万騎を殺す。単于は奔走し、その後十余歳、敢えて辺に近づかず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る