智囊 / 不戰・諸葛恪
諸葛恪有才名,吳主欲試以事,令守節度。節度掌錢穀,文書繁猥,非其好也。武侯聞之,遺陸遜書,陸公以白吳主,即轉恪領兵。恪啟吳主曰:「丹陽山險,民多果勁,雖前發兵,徒得外縣平民而已,其餘深遠,莫能擒盡。恪請往為其守,三年可得甲士四萬。」朝議皆以為,丹陽地勢險阻,周旋數千里,山谷萬重,其幽邃民人,未嘗入城邑、對長吏,皆伏兵野逸,白首於林莽;逋亡宿惡,咸共逃竄,鑄山為甲兵;俗好武習戰,高氣尚力,其升山赴險,抵突叢林,若魚之走淵,猿狖之騰木也;時觀間隙,出為寇盜。每致兵征伐,尋其窟藏,戰則蜂至,敗則鳥竄,自前世以來,不能馭而羈也。恪固言其必捷,吳主拜恪丹陽太守。
新字:諸葛恪有才名,呉主欲試以事,令守節度。節度掌銭穀,文書繁猥,非其好也。武侯聞之,遺陸遜書,陸公以白呉主,即転恪領兵。恪啓呉主曰:「丹陽山険,民多果勁,雖前発兵,徒得外県平民而已,其余深遠,莫能擒尽。恪請往為其守,三年可得甲士四万。」朝議皆以為,丹陽地勢険阻,周旋数千里,山谷万重,其幽邃民人,未嘗入城邑、対長吏,皆伏兵野逸,白首於林莽;逋亡宿悪,咸共逃竄,鋳山為甲兵;俗好武習戦,高気尚力,其升山赴険,抵突叢林,若魚之走淵,猿狖之騰木也;時観間隙,出為寇盗。毎致兵征伐,尋其窟蔵,戦則蜂至,敗則鳥竄,自前世以来,不能馭而羈也。恪固言其必捷,呉主拝恪丹陽太守。
書き下し
諸葛恪は才名有り、呉主試みに事を以てせんと欲し、節度を守らしむ。節度は銭穀を掌り、文書繁猥にして、其の好む所に非ず。武侯聞きて、陸遜に書を遺る。陸公以て呉主に白し、即ち恪を転じて兵を領せしむ。恪、呉主に啓して曰く、「丹陽は山険しく、民は多く果勁なり。前に兵を発すと雖も、徒に外県の平民を得るのみ。其の余の深遠は、擒え尽くす能わず。恪請う、往きて其の守と為り、三年にして甲士四万を得べし」と。朝議皆な以為えらく、丹陽の地勢は険阻にして、周旋すること数千里、山谷万重なり。其の幽邃の民人は、未だ嘗て城邑に入りて長吏に対せず、皆な野逸に伏兵し、林莽に白首す。逋亡宿悪は咸な共に逃竄し、山を鋳て甲兵と為す。俗は武を好み戦を習い、気を高くし力を尚ぶ。其の山に升り険に赴き、叢林に抵突するは、魚の淵に走り、猿狖の木に騰るが若きなり。時に間隙を観て、出でて寇盗を為す。兵を致して征伐する毎に、其の窟蔵を尋ぬるも、戦えば則ち蜂のごとく至り、敗るれば則ち鳥のごとく竄る。前世より以来、馭して羈ぐ能わざるなり。恪固く其の必ず捷つを言い、呉主恪を丹陽太守に拝す。
現代語訳
諸葛恪は才名があり、呉主は試しに仕事を与えようとして、節度の職を守らせた。節度は金銭と穀物を管理し、文書が煩雑で、恪の好む仕事ではなかった。武侯(諸葛亮)はこれを聞いて、陸遜に手紙を送った。陸公はそれを呉主に伝え、すぐに恪を軍を預かる職に替えた。恪は呉主に申し上げた。「丹陽は山が険しく、民の多くは勇猛で強靱です。以前に兵を出しても、ただ外県の平民を得ただけでした。その他の奥深い者たちは、捕らえ尽くすことができませんでした。私は願います。赴いてその太守となり、三年で兵四万を得ましょう」。朝議の者はみなこう考えた。丹陽の地勢は険しく、数千里にわたって回り、山や谷は万重に重なる。その奥深い場所の住民は、これまで城邑に入って長吏に対したことがなく、みな野に伏兵し、林や草むらで白髪になるまで生きている。逃亡者や根っからの悪人は、みなそこへ逃げ込み、山で鉄を鋳て武具を作る。習俗は武を好み戦いを習い、気位が高く力を尊ぶ。山に登り険しい所に赴き、叢林に突き進む様は、魚が淵に逃げ、猿が木に跳び上がるようだ。折を見ては出てきて略奪をする。兵を送って征伐するたびに、その巣窟を探すが、戦えば蜂のように押し寄せ、敗れれば鳥のように散る。前の世以来、制御して繋ぎ止めることができなかった。恪は必ず勝つとかたく言い切り、呉主は恪を丹陽太守に任じた。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』八説第四十七人君の任ずる所は、辯智に非ざれば則ち修潔なり。・・・智に任ずれば則ち君欺かれ、修に任ずれば則ち事亂る。此れ術無きの患なり。
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三略・中略軍勢に曰く、弁士をして敵の美を談説せしむること無かれ、其の衆を惑はすが為なり。仁者をして財を主らしむること勿かれ、其の多く施して下に附くが為なり。
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人物志・體別彊楷堅勁なるは、用は楨幹に在り、失は専固に在り。論弁理繹なるは、能は釈結に在り、失は流宕に在り。
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人物志・材能夫れ人材同じからず、能は各異なる有り。自任の能有り、立法使人の能有り、消息弁護の能有り、徳教を以て人に師たるの能、行事使人譴譲の能有り、司察糾摘の能有り、権奇の能有り、威猛の能有り。夫れ能は材より出で、材は量を同じくせず。材能既に殊なれば、政に任ずるも亦異なる。是の故に、自任の能は、清節の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の任、国の為にしては、則ち矯直の政なり。立法の能は、治家の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の任、国の為にしては、則ち公正の政なり。計策の能は、術家の材なり、故に朝に在りては、則ち三孤の任、国の為にしては、則ち変化の政なり。人事の能は、智意の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の佐、国の為にしては、則ち諧合の政なり。行事の能は、譴譲の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の佐、国の為にしては、則ち督責の政なり。権奇の能は、伎倆の材なり、故に朝に在りては、則ち司空の任、国の為にしては、則ち芸事の政なり。司察の能は、臧否の材なり、故に朝に在りては、則ち師氏の佐、国の為にしては、則ち刻削の政なり。威猛の能は、豪傑の材なり、故に朝に在りては、則ち将帥の任、国の為にしては、則ち厳厲の政なり。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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