智囊 / 善言・楊廷和・顧鼎臣
辛巳,肅廟入繼大統,方在衝年。登極之日,御龍袍頗長,上府視不已,大學士楊廷和奏云:「陛下垂衣裳而天下治。」聖情甚悅。嘉靖初,講官顧鼎臣講《孟子》「咸丘蒙」章,至「放勛殂落」語,侍臣皆驚,顧徐云:「堯是時已百有二十歲矣。」眾心始安。〔述評〕世宗多忌諱,是時科場出題,務擇佳語,如《論語》「無為而治」節,《孟子》「我非堯、舜之道」二句題,主司皆獲遣。疑「無為」非有為,「我非堯、舜」四字似謗語也。又命內侍讀鄉試錄,題是「仁以為己任,不亦重乎」,上忽問:「下文云何?」內侍對曰:「下文是『興於詩』云云。」此內侍亦有智。
新字:辛巳,粛廟入継大統,方在衝年。登極之日,御竜袍頗長,上府視不已,大学士楊廷和奏云:「陛下垂衣裳而天下治。」聖情甚悦。嘉靖初,講官顧鼎臣講《孟子》「咸丘蒙」章,至「放勛殂落」語,侍臣皆驚,顧徐云:「堯是時已百有二十歳矣。」衆心始安。〔述評〕世宗多忌諱,是時科場出題,務択佳語,如《論語》「無為而治」節,《孟子》「我非堯、舜之道」二句題,主司皆獲遣。疑「無為」非有為,「我非堯、舜」四字似謗語也。又命内侍読郷試録,題是「仁以為己任,不亦重乎」,上忽問:「下文云何?」内侍対曰:「下文是『興於詩』云云。」此内侍亦有智。
書き下し
辛巳、粛廟入りて大統を継ぐ、方に衝年に在り。登極の日、龍袍を御するに頗る長く、上府視して已まず。大学士楊廷和奏して云う、「陛下は衣裳を垂れて天下治まる」と。聖情甚だ悦ぶ。嘉靖の初め、講官顧鼎臣『孟子』の「咸丘蒙」章を講ず、「放勛殂落」の語に至り、侍臣皆な驚く。顧徐に云う、「堯是の時已に百有二十歳なり」と。衆心始めて安んず。〔述評〕世宗忌諱多し、是の時科場の出題、務めて佳語を択ぶ、『論語』の「無為にして治まる」節、『孟子』の「我は堯舜の道に非ず」の二句の題の如きは、主司皆な遣わさる。疑うらくは「無為」は有為に非ずとし、「我非堯舜」の四字は謗語に似たればなり。又た内侍に命じて郷試録を読ましむ、題は是れ「仁以て己が任と為す、亦た重からずや」、上忽ち問う、「下文は云何」と。内侍対えて曰く、「下文は是れ『詩に興る』云云なり」と。此の内侍も亦た智有り。
現代語訳
辛巳の年、粛宗の廟号をもつ世宗が入って帝位を継いだ。まだ年若いころである。即位の日、着た龍袍がかなり長く、帝はうつむいて何度も見ていた。大学士の楊廷和が奏上して言った。「陛下は衣裳を垂れて天下が治まる、と申します」。帝は大いに喜んだ。嘉靖の初め、講官の顧鼎臣が『孟子』の「咸丘蒙」の章を講義し、「放勛殂落」の語に至ると、侍臣たちは皆驚いた。顧はゆっくりと言った。「堯はこのとき、すでに百二十歳でした」。人々の心はようやく落ち着いた。〔述評〕世宗は忌み言葉が多く、このころ科挙の出題では、必ず縁起の良い語を選ぶようにしていた。例えば『論語』の「無為にして治まる」の節や、『孟子』の「私は堯舜の道を述べない」という二句の題を出した試験官は、いずれも罷免された。「無為」は有為に反するとか、「我非堯舜」の四字は誹謗の言葉に似ているとか、疑われたためであろう。また、宦官に郷試の記録を読ませたとき、題が「仁を己の任とする、また重いではないか」であると、帝は突然「下の文は何か」と尋ねた。宦官は答えた。「下の文は『詩に興る』云々です」。この宦官にも智があった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』遠猶・楊榮王振、楊士奇らに謂いて曰く、「朝廷の事は三楊先生に虧く。然れども三公も亦た高年にして勤に倦めり。其の後は当に如何すべきか」と。士奇曰く、「老臣は当に瘁を尽くして国に報い、死して後已むべし」と。栄曰く、「先生、此のごとく説くこと休めよ。吾が輩は衰残にして、以て力を効す無し。行ゆく後生の任ずべき者を択びて、以て聖恩に報いんのみ」と。振喜び、翌日即ち曹鼐、苗衷、陳循、高谷らを薦め、遂に次第に擢用す。士奇、栄の当日の発言の易きを以て(あやしむ)。栄曰く、「彼は吾が輩を厭えり。吾が輩縦い自ら立つとも、彼は其れ自ら已まんや。一旦、内中より片紙を出だし、某人に命じて入閣せしむれば、則ち吾が輩は手を束ぬるのみ。今、四人は竟に是れ吾が輩の人なり。当に一心協力すべし」と。士奇其の言に服す。〔馮述評〕李彦和の〈見聞雑記〉に云う、「言官が大臣を論劾するには、必ず功夫を下し、眼前の何人が代わるべきかを看見すべし。代わる者は必ず去る者より賢にして、必ず国家に益有りて、方に是れ忠にして言を進むるなり。若し只だ此の篇の文字を做し得て、自己の名頭を打ち出だすのみにして、国家に補い毫も無くんば、緘口して言わざるに如かず。反って言責に損無からん」と。此れも亦た楊公の論と合わせ看るべし。
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『智囊』善言・謝莊・裴楷・王份・王景文・崔光謝荘、字は希逸。孝武嘗て荘に宝剣を賜う。荘以て魯爽に与う。後に爽叛す。帝偶たま剣の所在を問う。答えて曰く、「昔魯爽と別るるに、竊かに借りて陛下の杜郵の賜と為せり」と。晋武始めて阼に登る、彩策に得る所一にして、王者の世数は此の多少を視る。帝既に悦ばず、君臣色を失う。侍中裴楷進みて曰く、「臣聞く、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、侯王は一を得て以て天下の貞と為ると」と。帝悦び、君臣歎服す。梁武帝王侍中份に問う、「朕は有と為すか、無と為すか」と。対えて曰く、「陛下は万物に応ずるは有なり、至理を体するは無なり」と。宋文帝天泉池に釣り、綸を垂れて獲ず。王景文曰く、「良に綸を垂るる者清きに由り、故に貪餌を獲ず」と。元魏の高祖、子に恂・愉・悦・懌と名づく。崔光、子に劭・勖・勉と名づく。高祖曰く、「我が児の名の旁は皆な心有り、卿が児の名の旁は皆な力有り」と。対えて曰く、「所謂君子は心を労し、小人は力を労すなり」と。〔評議〕王弇州曰く、「人は捷を以て供奉すと雖も、語は雅致を妨げず。桓玄の位を篡うや、初めて御牀に登りて陥つ、殷仲文曰く、『将に聖徳深厚にして、地載する能わざるに由る』と。梁武の宮門災あり、群臣に謂いて曰く、『我が意方に更新せんと欲す』と。何敬容曰く、『此れ所謂先天にして天違わず』と。又た武帝即位す、猛虎有り建康の郭に入り、象江陵に入る。上意悦ばず、以て群臣に問うも、敢えて対うる無し。王瑩曰く、『昔「石を撃ち石を拊てば、百獣率い舞う」。陛下籙に膺り図を御す、虎象来格す』と」と。縦い極めて贍辞なるも、人をして嘔穢せしめざる能わず。
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『智囊』見大・徐階徐存斎は翰林より督学として浙中に至る。時に年は未だ三十ならず。一士子の文中に顔苦孔之卓を用う。徐は之を勒し、批して杜撰と云い、四等に置く。此の生は将に責めを領せんとし、巻を執りて請いて曰く、大宗師の教えを見るは誠に当たれり。但し苦孔之卓は揚子の『法言』に出で、実に生員の杜撰に非ざるなり、と。徐は起立して曰く、本道は僥倖にして太だ早く、未だ嘗て学問せず。今、教えを承くること多し、と。改めて一等に置く。一時翕然として、其の雅量を称す。〔馮述評〕過ちを改むるを吝まざるは、即ち此れ名宰相の器識なるを知る。聞く、万暦初年に士の怨慕章の一題を作り、中に為舜也父者為舜也母者の句を用う。文宗の抑えて四等に置かれ、批して不通の字あり。此の士は自ら文法を陳べ、檀弓に出づと。文宗は大いに怒りて曰く、偏えに你は檀弓を読むか、と。更に五等に置く。人の度量の相い越ゆること、何ぞ啻に千里のみならんや。宋の藝祖は嘗て事を以て周翰に怒り、将に杖せんとす。翰は自ら言う、臣は天下の才名を負う。杖を受くるは雅ならず、と。帝は遂に之を釈す。古来の聖主名臣は、断じて性をして非に遂げしむること無し。又た聞く、徐公の浙に在りしとき、二生の貢を争いて堂下に嘩す有り。公は巻を閲すること自若たり。已にして二生の貢を遜る有りて、堂下に嘩す。公も亦た巻を閲すること自若たり。頃之して召して謂いて曰く、我れは人をして争わしめんと欲せず。亦た人をして譲らしむる能わず。諸生は未だ教条を読まざるか。本道すらも亦た教条の中に在り、主を做す得ず。諸生は但だ教条に照らして行うのみ、と。是に由りて争譲皆な息み、公の大体を持すること皆な此の類なり。
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『智囊』辯才・楊善也先、笑いて曰く、「者」。又、段匹を剪開する事を説く、「是れ回回人の為す所なり。他、一匹を将て剪りて両匹と為す。若し信ぜずんば、去りて他の行李を搜せ。好き者は都て在り」。也先又曰く、「者、者。都御史の説く所は皆実なり。如今、事已に往く。都て是れ小人の説き壊すなり」。善、其の意の已に和するを見て、乃ち曰く、「官人は北方の大将帥と為り、軍馬を掌領す。却って小人の言語を聴き、大明皇帝の厚恩を忘れ、使いて人民を殺擄せしむ。上天は生を好み、官人は殺を好む。父母妻子を想いて脱逃する者有らば、拿住すれば便ち心を剜り胆を摘み、高声に苦を叫ぶ。上天豈に聞知せざらんや」。答えて曰く、「我、曾て他に殺さしめず。是れ下人の自ら殺すなり」。善曰く、「今日、両家和好すること初めの如し。早く号令を出し、軍馬を収回せよ。上天の怒りを発し災いを降すを免れん」。也先、笑いて曰く、「者、者」。問う、「皇帝回去らば、還お做すか否か」。善曰く、「天位已に定まる。誰か再び更換せん」。也先曰く、「堯・舜は当初、如何に来たる」。善曰く、「堯は位を舜に譲る。今日、兄は位を弟に譲る。正に一般なり」。平章昂克有りて問う、「汝、皇帝を取りに来たるに、何の財物を将て来たる」。
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