智囊 / 善言・說秦王・晏子
晏子使吳,王謂行人曰:「吾聞嬰也,辯於辭,嫻於禮。」命儐者:「客見則稱天子。」明日,晏子有事,行人曰:「天子請見。」晏子慨然者三,曰:「臣受命敝邑之君,將使於吳王之所,不佞而迷惑,入於天子之朝,敢問吳王烏乎存?」然後吳王曰:「夫差請見。」見以諸侯之禮。晏子使楚,晏子短,楚人為小門於大門之側而延晏子。晏子不入,曰:「使狗國者,從狗門入;臣使楚,不當從此門。」儐者更從大門入。見楚王,王曰:「齊無人耶?」晏子對曰:「齊之臨淄三百閭,張袂成帷,揮汗成雨,何為無人?」王曰:「然則何為使子?」晏子對曰:「齊命使,各有所主。其賢者使賢主,不肖者使不肖主,嬰最不肖,故使楚耳。」
新字:晏子使呉,王謂行人曰:「吾聞嬰也,弁於辞,嫻於礼。」命儐者:「客見則称天子。」明日,晏子有事,行人曰:「天子請見。」晏子慨然者三,曰:「臣受命敝邑之君,将使於呉王之所,不佞而迷惑,入於天子之朝,敢問呉王烏乎存?」然後呉王曰:「夫差請見。」見以諸侯之礼。晏子使楚,晏子短,楚人為小門於大門之側而延晏子。晏子不入,曰:「使狗国者,従狗門入;臣使楚,不当従此門。」儐者更従大門入。見楚王,王曰:「斉無人耶?」晏子対曰:「斉之臨淄三百閭,張袂成帷,揮汗成雨,何為無人?」王曰:「然則何為使子?」晏子対曰:「斉命使,各有所主。其賢者使賢主,不肖者使不肖主,嬰最不肖,故使楚耳。」
書き下し
晏子呉に使いす。王行人に謂いて曰く、「吾聞く、嬰や辞に弁にして礼に嫻うと」と。儐者に命ず、「客見ゆれば則ち天子と称せよ」と。明日、晏子事有り、行人曰く、「天子見えんことを請う」と。晏子慨然たること三たび、曰く、「臣は敝邑の君に命を受け、将に呉王の所に使いせんとす。不佞にして迷惑し、天子の朝に入れり。敢えて問う、呉王は烏くにか存せる」と。然る後呉王曰く、「夫差見えんことを請う」と。見ゆるに諸侯の礼を以てす。晏子楚に使いす。晏子は短し、楚人小門を大門の側に為りて晏子を延く。晏子入らず、曰く、「狗国に使いする者は、狗門より入る。臣は楚に使いす、此の門よりすべきに当たらず」と。儐者更めて大門より入らしむ。楚王に見ゆ。王曰く、「斉に人無きか」と。晏子対えて曰く、「斉の臨淄は三百閭、袂を張れば帷を成し、汗を揮えば雨を成す。何為れぞ人無からん」と。王曰く、「然らば則ち何為れぞ子を使いせしむる」と。晏子対えて曰く、「斉の命使は、各おの主る所有り。其の賢者は賢主に使いし、不肖者は不肖の主に使いす。嬰は最も不肖なり、故に楚に使いするのみ」と。
現代語訳
晏子が呉に使いした。呉王は接待役に言った。「聞くところ、晏嬰は弁舌に巧みで礼にも通じているという」。そして取次ぎの者に命じた。「客が面会を求めたら、天子と称して取り次げ」。翌日、晏子が用事で来ると、接待役は「天子がお会いになります」と告げた。晏子は嘆くように三度ため息をつき、言った。「私は小国の君の命を受け、呉王のもとへ使いするところでした。愚かで迷い、天子の朝廷に入ってしまいました。お尋ねします。呉王はどこにおられるのですか」。それでようやく呉王は「夫差がお会いしたい」と言い、諸侯に対する礼で会見した。晏子が楚に使いした。晏子は背が低かったので、楚の人は大門のわきに小さな門を作って晏子を招いた。晏子は入らず、言った。「犬の国に使いする者は犬の門から入ります。私は楚に使いしたのですから、この門から入るべきではありません」。取次ぎの者はあらためて大門から入れた。楚王に会うと、王は言った。「斉には人がいないのか」。晏子は答えた。「斉の臨淄には三百の里があり、袖を広げれば幕となり、汗を払えば雨となるほど人が多いのに、なぜ人がいないというのでしょう」。王は言った。「それならなぜそなたを使いに出したのか」。晏子は答えた。「斉が使者を命じる際は、それぞれ相手に合わせます。賢い者は賢い君主のもとへ、愚かな者は愚かな君主のもとへ遣わします。私は最も不肖ですので、楚に使いしたのです」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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『講孟余話』梁惠王下 第三章此の章大議論なり、略其の端緒を論ぜん。隣国に交はる、原と是れ諸侯近隣諸国と交はるの道を論ず。然れども昆夷・獯鬻の事を引くを以て、或は錯りて夷狄を待つの道とし、遂に夷狄に事ふるを以て仁智の事とせんことを恐る、是れ細論せずんばあるべからず。凡そ隣国に交はるには親睦を以て主とす。故に力徳義三つの者我に優れる者に在りては、固より奉事すべし。或は力を恃んで強梁なる者ありとも、成る丈は寛仮して敢へて鋒を争はざるべし。若し又小国の如きは愛護して其の他国の侵陵を免れしむべし。凡そ夷狄の陵侮を受け、生民の塗炭となるは、国内相争ふに因る。世道に志ある者、最も意を留むべき事なり。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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