智囊 / 靈變・周金
周襄敏公撫宣府,總督馮侍郎以苟刻失眾心。會諸軍詣侍郎請糧,不從,且欲鞭之,眾遂憤,轟然面罵,因圍帥府,公時以病告,諸屬奔竄,泣告公,公曰:「吾在也,勿恐。」即便服出坐院門,召諸把總官陽罵曰:「是若輩剝削之過,不然,諸軍豈不自愛而至此!」欲痛鞭之,軍士聞公不委罪若也,氣已平。乃擁跪而前,為諸把總請曰:「非若輩罪,乃總制者罔利不恤我眾耳!」公從容為陳利害,眾囂曰:「公生我。」始解散去。
新字:周襄敏公撫宣府,総督馮侍郎以苟刻失衆心。会諸軍詣侍郎請糧,不従,且欲鞭之,衆遂憤,轟然面罵,因囲帥府,公時以病告,諸属奔竄,泣告公,公曰:「吾在也,勿恐。」即便服出坐院門,召諸把総官陽罵曰:「是若輩剥削之過,不然,諸軍豈不自愛而至此!」欲痛鞭之,軍士聞公不委罪若也,気已平。乃擁跪而前,為諸把総請曰:「非若輩罪,乃総制者罔利不恤我衆耳!」公従容為陳利害,衆囂曰:「公生我。」始解散去。
書き下し
周襄敏公は宣府を撫す。総督の馮侍郎は苛刻を以て衆の心を失う。会々諸軍は侍郎に詣りて糧を請うも、従われず、且つ之を鞭たんとす。衆は遂に憤り、轟然として面罵し、因りて帥府を囲む。公は時に病を以て告ぐ。諸属は奔竄し、泣きて公に告ぐ。公曰く、「吾は在り、恐るる勿れ」と。即ち便服して出で、院門に坐し、諸把総官を召して陽って罵りて曰く、「是れ若が輩の剥削の過ちなり。然らずんば、諸軍は豈に自愛せずして此に至らんや」と。痛く鞭たんと欲す。軍士は公の罪を若に委ねざるを聞き、気は已に平らぐ。乃ち擁して跪きて前み、諸把総の為に請いて曰く、「若が輩の罪に非ず、乃ち総制者が利を罔りて我が衆を恤まざるのみ」と。公は従容として為に利害を陳ぶ。衆は囂しく曰く、「公は我を生かす」と。始めて解散し去れり。
現代語訳
周襄敏公は宣府の巡撫だった。総督の馮侍郎は苛酷で、人々の心を失っていた。たまたま諸軍が侍郎のところへ兵糧を請いに行ったが、聞き入れられず、そのうえ鞭打とうとした。兵たちは怒り、どっと面と向かって罵り、帥府を取り囲んだ。公はそのとき病気で休んでいた。部下たちは逃げ散り、泣きながら公に知らせた。公は言った。「私がいる、恐れるな」。すぐに平服で出てきて、院の門に座り、下級の把総官たちを呼んで、わざと罵った。「これはお前たちが兵糧をかすめ取った罪だ。そうでなければ、兵たちが自分の身を大切にせずここまで来るはずがない」。厳しく鞭打とうとした。兵たちは、公が罪を自分たちに押しつけないと聞き、怒りはすでに収まっていた。そこで集まってひざまずき、把総官たちのために願い出た。「この人たちの罪ではありません。総制の方が利益を貪って、我々を思いやらなかっただけです」。公はゆったりとして、兵たちのために損得を説いた。兵たちはざわめいて言った。「公は我々を生かしてくださった」。ようやく解散して去った。
解説
この章句が説くこと
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