宋名臣言行録 / 前集巻八・狄青
陜西豪士劉易多遊邊喜談兵寳元康定間韓公宣撫五路薦之賜處士號易善作詩韓公為書石或不可其意則發怒洗去魏公欣然再書不憚公毎燕設易喜食苦馬菜不得之即呌怒無禮邊城無之公為求於内郡後毎燕集終日惟以此菜㗖之易不能堪方設常饌時稱公善制易也
新字:陜西豪士劉易多遊辺喜談兵寳元康定間韓公宣撫五路薦之賜処士号易善作詩韓公為書石或不可其意則発怒洗去魏公欣然再書不憚公毎燕設易喜食苦馬菜不得之即呌怒無礼辺城無之公為求於内郡後毎燕集終日惟以此菜㗖之易不能堪方設常饌時称公善制易也
書き下し
陜西の豪士劉易、多く邊に遊び、喜んで兵を談ず。寳元・康定の間、韓公、五路を宣撫し、之を薦む。處士の號を賜う。易、善く詩を作る。韓公、爲に石に書す。或いは其の意に可ならざれば則ち怒りを發して洗い去る。魏公欣然として再び書して憚らず。公、燕設する毎に、易、苦馬菜を食するを喜ぶ。之を得ざれば即ち呌怒して禮無し。邊城に之れ無し。公、爲に内郡に求む。後、燕集する毎に、終日惟だ此の菜を以て之に㗖わしむ。易堪える能わず。方に常饌を設く。時に公の善く易を制すと稱す。
現代語訳
陝西の豪士の劉易は、しきりに辺境を巡り、兵法を語るのを好んだ。宝元・康定の間、韓琦が五路を宣撫して、この者を推薦した。処士の号を賜った。劉易は詩を作るのが上手かった。韓琦はそのために石に書いてやった。あるいは自分の意にかなわないと、怒り出して洗い落とした。韓琦は喜んでまた書いて、いやがらなかった。韓琦が宴を設けるたび、劉易は苦馬菜を食べるのを好んだ。それが手に入らないと、すぐ叫んで怒って無礼になった。国境の町にはそれが無かった。韓琦はそのために内地の郡から取り寄せた。後には、宴のたびに一日じゅうこの菜ばかりを食べさせた。劉易は堪えられなかった。そこでふつうの料理を出した。当時の人は、韓琦がうまく劉易を扱ったと称した。
解説
扱いにくい人との付き合い方が、二段になっている条です。前半は**受け入れる側。**詩を石に書いてやり、気に入らないと洗い落とされても、また書いてやる。好物が国境に無ければ、内地から取り寄せる。後半が**返し方**でした。**宴のたびに一日じゅうその菜ばかり食べさせた。**堪えられなくなったところで、ふつうの料理を出す。叱らずに、望みどおりを徹底することで気づかせています。
この章句が説くこと
或いは其の意に可ならざれば則ち怒りを発して洗い去る魏公欣然として再び書して憚らず之を得ざれば即ち呌怒して礼無し公為に内郡に求む終日惟だ此の菜を以て之に㗖わしむ易堪える能わず扱い忍耐機知
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『宋名臣言行録』前集巻八・狄青青、真定の副帥と作る。嘗て魏公に宴す。惟だ劉易先生のみ與る。易の性は素より踈訐なり。時に優人、儒を以て戲を爲す。易勃然として、黥卒、敢えて此くの如くすと謂う。公を詬詈して口を絶たず。樽俎を擲ちて以て起つに至る。公の氣、殊に自若として、少しも動ぜず。笑語益々温なり。次日、公首として劉易を造りて謝す。魏公、是の時に於て巳に其の量有るを知る。
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦太宗・眞宗嘗て大名の郊に獵し、詩數十篇を題す。賈魏公時に石に刻む。公留守の日、其の詩を以て班瑞殿の壁に藏む。既に成り、客に公に摹本して以て進むるを勸むる者有り。公曰く、之を修めば則ち已む。安んぞ進むるを用いんやと。客も亦た公の意を喻る莫し。韓絳來たり、遂に之を進む。公之を聞きて嘆じて曰く、昔豈に進むるを知らざらんや。顧うに上方に四夷の事に銳意す。當に更に之を導くべからざるのみと。
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