智囊 / 謬數・蘇秦
紹興中,楊和王存中為殿帥。有代北人衛校尉,曩在行伍中與楊結義。首往投謁,楊一見甚歡,事以兄禮,且令夫人出拜,款曲慇懃。兩日後忽疏之,來則見於外室,衛以楊方得路,志在一官,故間關赴之,至是大失望。過半年,疑為人所譖,乃告辭。又不得通,或教使伺其入朝回,遮道陳狀,楊亦略不與語,但判云:「執就常州於本府某莊內支錢一百貫。」衛愈不樂,然無可奈何,倘得錢,尚可治歸裝,而不識楊莊所在,正彷徨旅邸,遇一客,自云:「程副將,便道往常、潤,陪君往取之。」既得錢,相從累日,情好無間,密語之曰:「吾實欲游中原,君能引我偕往否?」衛欣然許之,迤邐至代郡,倩衛買田:「我欲作一窟於此。」衛為經營,得膏腴千畝,居久之,乃言曰:「吾本無意於斯,此盡出楊相公處分,初慮公貪小利,輕舍鄉里,當今兵革不用,非展奮功名之秋,故遣我追隨,為辦生計。」悉取券相授,約直萬緡,黯然而別。此與蘇秦事相類。
新字:紹興中,楊和王存中為殿帥。有代北人衛校尉,曩在行伍中与楊結義。首往投謁,楊一見甚歓,事以兄礼,且令夫人出拝,款曲慇懃。両日後忽疏之,来則見於外室,衛以楊方得路,志在一官,故間関赴之,至是大失望。過半年,疑為人所譖,乃告辞。又不得通,或教使伺其入朝回,遮道陳状,楊亦略不与語,但判云:「執就常州於本府某荘内支銭一百貫。」衛愈不楽,然無可奈何,倘得銭,尚可治帰装,而不識楊荘所在,正彷徨旅邸,遇一客,自云:「程副将,便道往常、潤,陪君往取之。」既得銭,相従累日,情好無間,密語之曰:「吾実欲游中原,君能引我偕往否?」衛欣然許之,迤邐至代郡,倩衛買田:「我欲作一窟於此。」衛為経営,得膏腴千畝,居久之,乃言曰:「吾本無意於斯,此尽出楊相公処分,初慮公貪小利,軽舎郷里,当今兵革不用,非展奮功名之秋,故遣我追随,為辦生計。」悉取券相授,約直万緡,黯然而別。此与蘇秦事相類。
書き下し
紹興中、楊和王存中、殿帥と為る。代北の人、衛校尉なる者有り、曩に行伍の中にて楊と義を結ぶ。首めて往きて投謁するに、楊一たび見て甚だ歓び、事うるに兄の礼を以てし、且つ夫人をして出でて拝せしめ、款曲慇懃なり。両日の後、忽ち之を疏んじ、来たれば則ち外室に見ゆ。衛、楊の方に路を得たるを以て、志は一官に在り、故に間関として之に赴きしに、是に至りて大いに失望す。半年を過ぎ、人に譖せらるるかと疑い、乃ち告辞す。又通ずるを得ず、或いは教えて其の入朝より回るを伺い、道を遮りて状を陳べしむ。楊も亦た略ぼ与に語らず、但だ判して云う、「執りて常州に就き、本府の某荘内にて銭一百貫を支せよ」と。衛愈いよ楽しまざるも、然れども奈何ともする無し。倘し銭を得れば、尚お帰装を治むべし。而れども楊の荘の所在を識らず、正に旅邸に彷徨するに、一客に遇う。自ら云う、「程副将なり。便道に常・潤に往く、君を陪して往きて之を取らん」と。既に銭を得て、相い従うこと累日、情好間無し。密かに之に語りて曰く、「吾は実に中原に游ばんと欲す。君、能く我を引きて偕に往かんか」と。衛、欣然として之を許す。迤邐として代郡に至り、衛に倩して田を買わしめて曰く、「我、一窟を此に作らんと欲す」と。衛、為に経営し、膏腴の千畝を得たり。居ること久しくして、乃ち言いて曰く、「吾は本より意を斯に無し。此れ尽く楊相公の処分に出ず。初め公の小利を貪り、軽がるしく郷里を舎てんことを慮れり。当今、兵革用いられず、功名を展奮するの秋に非ず、故に我を遣わして追随せしめ、為に生計を弁ぜしむ」と。悉く券を取りて相い授く。約そ直は万緡、黯然として別る。此れ蘇秦の事と相い類す。
現代語訳
紹興年間、楊存中(和王)が殿帥となった。代北の出身で衛校尉という者がおり、昔、軍隊で楊と義兄弟の契りを結んでいた。衛が初めて訪ねると、楊は一目見て大いに喜び、兄に仕える礼をとり、夫人まで出て拝礼させる丁重さだった。ところが二日後、急に衛を遠ざけ、来ても外の部屋で会うだけになった。衛は、楊が出世したのだから一官を得ようと苦労して来たのに、ここに至って大いに失望した。半年が過ぎ、誰かに讒言されたのかと疑って、いとまを告げた。それでも面会できず、ある人が、楊が朝廷から帰る時を待ち伏せ、道をさえぎって訴状を出せばよいと教えた。楊はそれにもほとんど口をきかず、ただ判を書いて、「常州に行き、本府の某荘から銭百貫を受け取れ」と言った。衛はますます不満だったがどうしようもない。銭が得られれば帰りじたくはできるが、楊の荘の場所を知らず、宿で途方に暮れていると、一人の客に出会った。客は「私は程副将です。ちょうど常州・潤州へ行く途中ですから、お供して取りに行きましょう」と言う。銭を受け取った後も、数日一緒に行動し、親しさに隔てがなくなった。程はひそかに衛に「私は実は中原に遊びたいのだ。あなた、私を連れて一緒に行ってくれないか」と言い、衛は喜んで承知した。道々進んで代郡に着くと、程は衛に頼んで田を買わせ、「私はここに住みかを一つ作りたい」と言った。衛が世話をして、肥えた良田千畝を得た。しばらく経って程は言った、「私は本来ここに用はない。これはみな楊相公の指図なのだ。はじめ公が小さな利益を貪って、軽々しく故郷を捨てることを案じておられた。今は戦も用いられず、功名を立てる時ではない。だから私を遣わしてついて行かせ、暮らしの基盤を整えさせたのだ」と。そうして証文をすべて衛に渡した。値はおよそ一万緡で、衛は感じ入って別れた。これは蘇秦の話とよく似ている。
解説
この章句が説くこと
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