智囊 / 識斷・呂端
太宗大漸,內侍王繼恩忌太子英明,陰與參知政事李昌齡等謀立楚王元佐。端問疾禁中,見太子不在旁,疑有變,乃以笏書「大漸」二字,令親密吏趣太子入侍。太宗崩,李皇后命繼恩召端,端知有變,即紿繼恩,使入書閣檢太宗先賜墨詔,遂鏁之而入,皇后曰:「宮車已晏駕,立子以長,順也。」端曰:「先帝立太子,正為今日。今始棄天下,豈可遽違命有異議耶。」乃奉太子。真宗既立,垂簾引見群臣。端平立殿下,不拜,請捲簾升殿審視,然後降階,率群臣拜呼「萬歲」。〔馮評〕不糊塗,是識;必不肯糊塗過去,是斷。
新字:太宗大漸,内侍王継恩忌太子英明,陰与参知政事李昌齢等謀立楚王元佐。端問疾禁中,見太子不在旁,疑有変,乃以笏書「大漸」二字,令親密吏趣太子入侍。太宗崩,李皇后命継恩召端,端知有変,即紿継恩,使入書閣検太宗先賜墨詔,遂鏁之而入,皇后曰:「宮車已晏駕,立子以長,順也。」端曰:「先帝立太子,正為今日。今始棄天下,豈可遽違命有異議耶。」乃奉太子。真宗既立,垂簾引見群臣。端平立殿下,不拝,請捲簾升殿審視,然後降階,率群臣拝呼「万歳」。〔馮評〕不糊塗,是識;必不肯糊塗過去,是断。
書き下し
太宗大漸なるや、内侍の王継恩、太子の英明を忌み、陰かに参知政事の李昌齢らと楚王元佐を立てんことを謀る。端、疾を禁中に問い、太子の傍らに在らざるを見て、変有らんかと疑い、乃ち笏を以て「大漸」の二字を書き、親密の吏をして太子を趣して入侍せしむ。太宗崩じ、李皇后、継恩に命じて端を召さしむ。端、変有るを知り、即ち継恩を紿き、書閣に入りて太宗の先に賜いし墨詔を検せしめ、遂に之を鏁して入る。皇后曰く、「宮車已に晏駕す。子を立つるに長を以てするは、順なり」と。端曰く、「先帝、太子を立てたまいしは、正に今日の為なり。今始めて天下を棄てたまい、豈に遽かに命に違いて異議有るべけんや」と。乃ち太子を奉ず。真宗既に立ち、簾を垂れて群臣を引見す。端、殿下に平立して拝せず。請いて簾を捲きて升殿し審視し、然る後に階を降り、群臣を率いて拝し「万歳」を呼ぶ。〔馮評〕糊塗ならざるは、是れ識。必ず糊塗にして過ぎ去らざるは、是れ断。
現代語訳
太宗が重病になったとき、宦官の王継恩は太子が賢明であることを嫌い、ひそかに参知政事の李昌齢らと、楚王の元佐を立てようと謀りました。呂端は病気見舞いに宮中に入り、太子がそばにいないのを見て、変事があるのではと疑い、笏に「大漸」の二字を書いて、親しい役人に、太子を急がせて参内させました。太宗が崩御し、李皇后は王継恩に命じて呂端を召しました。呂端は変事があると知り、継恩をだまして書閣に入らせ、太宗が先に賜った墨の詔を調べさせると、そのまま鍵をかけて閉じ込めて、自分は皇后のもとへ入りました。皇后は言いました。「宮車はすでに崩御されました。子を立てるには長子をもってするのが、順当です。」呂端は言いました。「先帝が太子を立てられたのは、まさに今日のためです。いま天下を去られたばかりで、どうして急に遺命に背いて異議を唱えられましょうか。」そこで太子を奉じました。真宗が即位すると、簾を垂らして群臣に引見しました。呂端は殿の下にまっすぐ立って拝しませんでした。簾を巻き上げて殿に昇り、よく確かめることを願い、そのあとで階段を降り、群臣を率いて拝礼し「万歳」を唱えました。〔馮評〕ぼんやりしないのは識であり、決してぼんやりと見過ごさないのは断である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
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尚書・伊訓惟れ元祀(げんし)十有二月乙丑、伊尹先王に祠(まつ)り、嗣王を奉じて祗(つつし)みて厥(そ)の祖に見(まみ)えしむ。侯甸(こうでん)の群后咸(みな)在り、百官己を総べて以て冢宰(ちようさい)に聴く。伊尹乃ち明らかに烈祖の成徳を言ひ、以て王を訓(をし)へて曰く、「嗚呼(ああ)、古(いにしへ)の有夏の先后、方(まさ)に厥の徳を懋(つと)め、天災有る罔(な)し。山川鬼神も亦寧(やす)からざる莫(な)く、鳥獣魚鼈(ぎよべつ)に暨(およ)ぶまで咸若(したが)ふ。其の子孫に于(お)いて率(したが)はず、皇天災を降し、手を我が命有るものに仮る。攻を造(はじ)むるは鳴条よりし、朕が哉(はじ)めは亳よりす。惟れ我が商王、聖武を布昭し、虐に代ふるに寛を以てし、兆民允(まこと)に懐く。今王厥の徳を嗣ぐは、初めに在らざる罔し。
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『講孟余話』公孫丑上 首章是れを以て王者の政をなすは、身を治め家を斉ふるを以て先務とす。身を治め家を斉ふるを先務とするは、事迂濶なる如くなれども、其の法子孫に伝はり、幾世を経ても動揺せざるのみならず、益々興隆する者なり。業を創め統を垂るるは継ぐべきを為すと云ふも此の事なり。豊公の如き非常の大豪傑にて、一世を鼓舞すれども、其の後嗣彼が如し。恐れ多きことなれども、本藩の如きは、洞春公以来大義を重んじ懿親を敦うし、以て今に至る。長防褊小と雖も、万世の基業動揺することなし。此れを以て彼に比せば、孰れか優れる、孰れか劣れる。曾西の才管仲に及ばずと云へども、管仲に比することを欲せざるは是れを以てのみ。噫、是れ王覇の弁なり。
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