智囊 / 識斷・段秀實・孔鏞
段秀實以白孝德薦為涇州刺史。時郭子儀為副元帥,居蒲,子晞以檢校尚書領行營節度使,屯邠州。邠之惡少竄名伍中,白晝橫行市上,有不嗛,輒擊傷人,甚之撞害孕婦,孝德不敢言。秀實自州至府白狀,因自請為都虞侯,孝德即檄署府軍,俄而晞士十七人入市取酒,刺殺酒翁,壞釀器。秀實列卒取之,斷首置槊上,植市門外。一營大噪,盡甲,秀實解去佩刀,選老躄一人控馬,徑造晞門。甲者盡出,秀實笑而入,曰:「殺一老兵,何甲也?吾戴吾頭來矣。」甲者愕眙。俄而晞出,秀實責之曰:「副元帥功塞天地,今尚書恣卒為暴,使亂天子邊,欲誰歸罪乎?罪且及副元帥矣!今邠惡子弟竄名籍中,殺害人藉藉如是,人皆曰『尚書以副元帥故不戢士』,然則郭氏功名,其與存者幾何?」晞乃再拜曰:「公幸教晞。」即叱左右解甲,秀實曰:「吾未晡食,為我設具。」食已,又曰:「吾疾作,願一宿門下。」遂臥軍中。晞大駭,戒候卒擊柝衛之。明日,晞與俱至孝德所陳謝,邠賴以安。
新字:段秀実以白孝徳薦為涇州刺史。時郭子儀為副元帥,居蒲,子晞以検校尚書領行営節度使,屯邠州。邠之悪少竄名伍中,白昼横行市上,有不嗛,輒撃傷人,甚之撞害孕婦,孝徳不敢言。秀実自州至府白状,因自請為都虞侯,孝徳即檄署府軍,俄而晞士十七人入市取酒,刺殺酒翁,壊醸器。秀実列卒取之,断首置槊上,植市門外。一営大噪,尽甲,秀実解去佩刀,選老躄一人控馬,径造晞門。甲者尽出,秀実笑而入,曰:「殺一老兵,何甲也?吾戴吾頭来矣。」甲者愕眙。俄而晞出,秀実責之曰:「副元帥功塞天地,今尚書恣卒為暴,使乱天子辺,欲誰帰罪乎?罪且及副元帥矣!今邠悪子弟竄名籍中,殺害人藉藉如是,人皆曰『尚書以副元帥故不戢士』,然則郭氏功名,其与存者幾何?」晞乃再拝曰:「公幸教晞。」即叱左右解甲,秀実曰:「吾未晡食,為我設具。」食已,又曰:「吾疾作,願一宿門下。」遂臥軍中。晞大駭,戒候卒撃柝衛之。明日,晞与倶至孝徳所陳謝,邠頼以安。
書き下し
段秀実、白孝徳の薦むるを以て涇州刺史と為る。時に郭子儀は副元帥と為り、蒲に居る。子の晞は検校尚書を以て行営節度使を領し、邠州に屯す。邠の悪少、名を伍中に竄め、白昼市上に横行し、嗛からざる有れば、輒ち人を撃傷し、甚だしきは孕婦を撞害す。孝徳、敢えて言わず。秀実、州より府に自ら赴きて状を白し、因りて自ら請いて都虞候と為る。孝徳、即ち檄して府軍に署す。俄にして晞の士十七人、市に入りて酒を取り、酒翁を刺殺し、醸器を壊す。秀実、卒を列ねてこれを取り、首を断ち槊上に置き、市門の外に植つ。一営大いに噪ぎ、尽く甲す。秀実、佩刀を解き去り、老躄一人を選びて馬を控えしめ、径ちに晞の門に造る。甲者尽く出づ。秀実、笑いて入り、曰く、「老兵一人を殺すに、何ぞ甲するや。吾、吾が頭を戴きて来れり」と。甲者愕胎す。俄にして晞出づ。秀実これを責めて曰く、「副元帥の功は天地を塞ぐ。今、尚書、卒を恣にして暴を為さしめ、天子の辺を乱さしむ。誰に罪を帰せんと欲するか。罪は且に副元帥に及ばんとす。今、邠の悪子弟、名籍に竄め、人を殺害すること藉藉として是くの如し。人みな曰う、『尚書、副元帥の故を以て士を戢めず』と。然らば則ち郭氏の功名、其れ与に存する者幾何ぞ」と。晞乃ち再拝して曰く、「公、幸いに晞を教えよ」と。即ち左右を叱して甲を解かしむ。秀実曰く、「吾未だ晡食せず。我が為に具を設けよ」と。食し已りて、又た曰く、「吾が疾作る。願わくは一宿門下せん」と。遂に軍中に臥す。晞大いに駭き、候卒に戒めて柝を撃ちてこれを衛らしむ。明日、晞は秀実と倶に孝徳の所に至りて陳謝し、邠これに頼りて安んず。
現代語訳
段秀実は白孝徳の推薦で涇州刺史になりました。そのころ郭子儀は副元帥として蒲州におり、その子の郭晞は検校尚書の官で行営節度使を兼ね、邠州に駐屯していました。邠州の不良少年たちは軍の名簿に名を紛れ込ませ、白昼に市場で横行し、気に入らないことがあるとすぐ人を殴って傷つけ、ひどいときは妊婦にぶつかって害しました。白孝徳はあえて言い出せませんでした。段秀実は州から役所に自ら出向いて事情を訴え、自ら願い出て都虞候になりました。白孝徳はすぐに文書で府の軍に任命しました。まもなく郭晞の配下の兵十七人が市場に入って酒を奪い、酒屋の老人を刺殺し、醸造の道具を壊しました。段秀実は兵を並べて彼らを捕らえ、首を斬って槍の先に置き、市の門の外に立てました。郭晞の営は大騒ぎとなり、全員が鎧を着ました。段秀実は佩刀を外して置き、年老いて足の不自由な者一人を選んで馬の手綱を取らせ、まっすぐ郭晞の門へ行きました。武装した兵が皆出てきました。段秀実は笑って入り、言いました。「年寄りの兵一人を殺すのに、なぜ鎧を着るのか。私は自分の首を戴いてきたのだ。」武装した者たちは驚いて目を見張りました。まもなく郭晞が出てきました。段秀実は彼を責めて言いました。「副元帥の功は天地に満ちています。いま尚書は兵に勝手な乱暴を許し、天子の辺境を乱そうとしている。誰に罪を帰そうというのか。罪は副元帥にまで及びますぞ。いま邠州の悪い子弟が軍籍に紛れ込み、人を殺し傷つけることがおびただしい。人々はみな『尚書は副元帥の威光があるので、兵を取り締まらない』と言っている。そうなれば、郭氏の功名はどれほど残るでしょうか。」郭晞は再拝して言いました。「どうか私を教えてください。」すぐに左右の者を叱って鎧を脱がせました。段秀実は言いました。「私はまだ夕食を食べていない。食事を用意してくれ。」食べ終わると、また言いました。「持病が起こりました。どうか一晩、お宅に泊めてください。」とうとう軍の中で寝ました。郭晞は大いに驚き、見張りの兵に拍子木を打たせて護衛させました。翌日、郭晞は段秀実とともに白孝徳のもとへ行って謝罪し、邠州はこれによって安定しました。
解説
この章句が説くこと
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史記 袁盎鼂錯列伝然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。
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