智囊 / 識斷・周瑜・寇準・陳康伯
准因請召諸將,瓊至,曰:「蜀遠,欽若之議是也,上與後宮御樓船,浮汴而下,數日可至。」眾皆以為然,准大驚,色脫。瓊又徐進曰:「臣言亦死,不言亦死,與其事至而死,不若言而死。今陛下去都城一步,則城中別有主矣,吏卒皆北人,家在都下,將歸事其主,誰肯送陛下者,金陵亦不可到也。」准又喜過望,曰:「瓊知此,何不為上駕?」瓊乃大呼「逍遙子」,准掖上以升,遂渡河,幸澶淵之北門。遠近望見黃蓋,諸軍皆踴躍呼萬歲,聲聞數十里。契丹氣奪,來薄城,射殺其帥順國王撻覽,敵懼,遂請和。〔馮按〕是役,准先奏請,乘契丹兵未逼鎮、定,先起定州軍馬三萬南來鎮州,又令河東兵出土門路會合,漸至邢、洺,使大名有恃,然後聖駕順動。又遣將向東旁城塞牽拽,又募強壯入虜界,擾其鄉村,俾虜有內顧之憂。又檄令州縣堅壁,鄉村入保,金幣自隨,谷不徙者,隨在瘞藏。寇至勿戰,故虜雖深入而無得。方破德清一城,而得不補失,未戰而困。若無許多經略,則渡河真孤注矣。
新字:准因請召諸将,瓊至,曰:「蜀遠,欽若之議是也,上与後宮御楼船,浮汴而下,数日可至。」衆皆以為然,准大驚,色脱。瓊又徐進曰:「臣言亦死,不言亦死,与其事至而死,不若言而死。今陛下去都城一歩,則城中別有主矣,吏卒皆北人,家在都下,将帰事其主,誰肯送陛下者,金陵亦不可到也。」准又喜過望,曰:「瓊知此,何不為上駕?」瓊乃大呼「逍遥子」,准掖上以升,遂渡河,幸澶淵之北門。遠近望見黄蓋,諸軍皆踴躍呼万歳,声聞数十里。契丹気奪,来薄城,射殺其帥順国王撻覧,敵懼,遂請和。〔馮按〕是役,准先奏請,乗契丹兵未逼鎮、定,先起定州軍馬三万南来鎮州,又令河東兵出土門路会合,漸至邢、洺,使大名有恃,然後聖駕順動。又遣将向東旁城塞牽拽,又募強壮入虜界,擾其郷村,俾虜有内顧之憂。又檄令州県堅壁,郷村入保,金幣自随,谷不徙者,随在瘞蔵。寇至勿戦,故虜雖深入而無得。方破徳清一城,而得不補失,未戦而困。若無許多経略,則渡河真孤注矣。
書き下し
准、因りて諸将を召さんことを請い、瓊至る。曰く、「蜀は遠し、欽若の議は是なり。上、後宮と楼船に御し、汴に浮かびて下らば、数日にして至るべし」と。衆みな以て然りと為し、准大いに驚き、色脱す。瓊また徐ろに進みて曰く、「臣、言うも亦た死し、言わざるも亦た死す。事至りて死せんよりは、言いて死せんに如かず。今、陛下都城を去ること一歩なれば、則ち城中に別に主有らん。吏卒はみな北人にして、家は都下に在り、将に帰りてその主に事えんとす。誰か肯えて陛下を送る者あらん。金陵にも亦た到るべからざるなり」と。准また喜び望みに過ぎ、曰く、「瓊、此れを知る、何ぞ上の為に駕せざる」と。瓊乃ち大いに「逍遙子」と呼び、准、上を掖けて以て升らしめ、遂に河を渡り、澶淵の北門に幸す。遠近、黄蓋を望見し、諸軍みな踊躍して万歳を呼び、声は数十里に聞こゆ。契丹、気奪われ、来りて城に薄るも、その帥の順国王撻覧を射殺され、敵懼れ、遂に和を請う。〔馮按〕是の役、准、先に奏請し、契丹の兵の未だ鎮・定に逼らざるに乗じ、先ず定州の軍馬三万を起こして南のかた鎮州に来らしめ、又た河東の兵をして土門の路に出でて会合せしめ、漸く邢・洺に至らしめ、大名をして恃む有らしめ、然る後に聖駕の順動あり。又た将を遣わして東のかた城塞に傍いて牽拽せしめ、又た強壮を募りて虜界に入り、その郷村を擾し、虜をして内顧の憂い有らしむ。又た州県に檄して壁を堅くし、郷村は入りて保ち、金幣は自ら随え、谷の徙さざる者は、在る所に随いて瘞蔵せしむ。寇至らば戦うこと勿かれ、故に虜は深く入ると雖も得る無し。方に徳清一城を破るのみにして、得は失を補わず、未だ戦わずして困しむ。若し許多の経略無くんば、則ち河を渡るは真に孤注なり。
現代語訳
寇準はそこで諸将を呼び集めるよう願い出ました。王瓊がやって来て言いました。「蜀は遠い。王欽若の案はもっともです。陛下が後宮の方々とともに楼船に乗り、汴水に浮かんで下れば、数日で着けましょう。」皆がその通りだと思い、寇準は大いに驚いて顔色を失いました。王瓊はさらにゆっくりと進み出て言いました。「私は、言っても死、言わなくても死です。事が起きてから死ぬより、言って死ぬ方がましです。今、陛下が都城を一歩でも離れれば、城中には別の主が立つでしょう。役人も兵士もみな北方の者で、家は都にあり、帰ってその新しい主に仕えようとするはずです。誰が陛下をお送りしましょうか。金陵にさえ着けないでしょう。」寇準はまた望外に喜んで言いました。「王瓊はそれを知っていながら、なぜ陛下のために御車を用意しないのか。」王瓊はそこで大声で「逍遙子」と呼び、寇準が帝を助け上げて車に乗せ、とうとう黄河を渡って澶淵の北門に行幸しました。遠近の者が黄色い御蓋を望み見ると、諸軍はみな躍り上がって万歳を叫び、その声は数十里に聞こえました。契丹は気勢をそがれ、城に迫ってきましたが、その将の順国王撻覧を射殺され、敵はおそれて、ついに和を請いました。〔馮按〕この戦いで、寇準はあらかじめ上奏して、契丹の兵がまだ鎮州・定州に迫らないうちに、まず定州の軍馬三万を南の鎮州に来させ、また河東の兵を土門の道に出して合流させ、次第に邢州・洺州に至らせて、大名府に頼みを持たせ、そのうえで帝の車駕を動かしました。また将を遣わして東の城塞に沿って敵を牽制させ、また勇壮な者を募って敵地に入らせ、その村々をかき乱して、敵に後ろを顧みる憂いを持たせました。さらに州県に檄を飛ばして守りを固めさせ、村人は城に入って保ち、金銭財貨は自ら携え、穀物で移せないものは、その場に埋めて隠させました。敵が来ても戦うなと命じたので、敵は深く入っても何も得られませんでした。ちょうど徳清一城を破っただけで、得は失を補えず、戦わないうちに疲れ果てたのです。もしこれほどの手立てがなかったなら、黄河を渡るのは本当に一か八かの賭けにすぎなかったでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 田単列伝田単は、斉の諸田の疏属なり。湣王の時、単は臨菑の市掾と為るも、知られず。燕、楽毅をして斉を伐ち破らしむるに及び、斉の湣王出奔し、已にして莒城を保つ。燕の師長駆して斉を平らぐ。而して田単は安平に走り、其の宗人をして尽く其の車軸の末を断ちて鉄籠を傅けしむ。已にして燕軍安平を攻め、城壊れ、斉人走りて塗を争ひ、轊の折るるを以て車敗れ、燕の虜とする所と為る。唯だ田単の宗人のみ鉄籠の故を以て脱るるを得、東して即墨を保つ。燕既に尽く斉の城を降し、
-
『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
-
孟子・離婁章句下孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徙る可し。」
-
『春秋左氏伝』襄公九年 宋の大火と天道九年春、宋災あり。樂喜、司城と為り、以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は、小屋を徹し、大屋を塗り、畚挶(ほんきょく)を陳ね、綆缶(かうふ)を具へ、水器を備へ、輕重を量り、水潦を蓄へ、土塗を積み、丈城を巡り、守備を繕ひ、火道を表す。華臣をして正徒を具へしめ、隧正に令して郊保を納れ、火所に奔らしむ。華閱をして右官を討めしめ、官ごとに其の司を庀(をさ)めしむ。向戌をして左を討めしむること、亦た之の如し。樂遄をして刑器を庀めしむること、亦た之の如し。皇鄖をして校正に命じて馬を出さしめ、工正に車を出さしめ、甲兵を備へ、武守を庀めしむ。西鉏吾をして府守を庀めしめ、司宮・巷伯に令して宮を儆めしむ。二師、四鄉の正に令して敬んで享せしむ。祝宗、馬を四墉に用ゐ、盤庚を西門の外に祀る。晉侯、士弱に問ひて曰く、「吾之を聞く、宋災あり、是に於てか天道有るを知ると。何の故ぞ」と。對へて曰く、「古の火正は、或いは心に食し、或いは咮(ちう)に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と為し、心を大火と為す。陶唐氏の火正閼伯(あつはく)、商丘に居りて大火を祀り、而して火もて時を紀す。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人、其の禍敗の釁(きざし)を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり」と。公曰く、「必すべきか」と。對へて曰く、「道に在り。國亂れて象無ければ、知るべからざるなり」と。
-
史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
-
史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る