智囊 / 威克・蘇不韋
子猶曰:「李暠私忿不戢,辱及墓骨,妻子為戮,身亦隨之,為天下笑,可謂大愚!然能以私忿殺其父,而竟不能以官法治其子,何也?將俠士善藏,始皇之威,猶不行於博浪,況他人乎?顧子房事秘,無可物色,而茲留書標市,顯行其意,莫得而誰何之,不獨過子胥,且過子房矣!東漢尚節義,或憐其志節而庇護之未可知。要之一夫含痛,不報不休,死生非所急也,不韋真杰士哉!」楚悼王薨,貴戚大臣作亂,攻吳起。起走之王屍而伏之,擊起之徒因射起並中王屍。既葬,肅王即位,使令尹盡誅為亂者,坐起夷宗者七十家。齊大夫與蘇秦爭寵,使人刺之,不死,殊而走,齊王求賊不得,蘇秦且死,乃謂齊王曰:「臣即死,車裂臣以徇於市,曰:『蘇秦作亂於齊。』如此則臣之賊必得矣。」於是如其言,而殺蘇秦者果自出,齊王因而誅之。若起與秦,身死而能以術自報其仇,智更足多矣。
新字:子猶曰:「李暠私忿不戢,辱及墓骨,妻子為戮,身亦随之,為天下笑,可謂大愚!然能以私忿殺其父,而竟不能以官法治其子,何也?将侠士善蔵,始皇之威,猶不行於博浪,況他人乎?顧子房事秘,無可物色,而茲留書標市,顕行其意,莫得而誰何之,不独過子胥,且過子房矣!東漢尚節義,或憐其志節而庇護之未可知。要之一夫含痛,不報不休,死生非所急也,不韋真杰士哉!」楚悼王薨,貴戚大臣作乱,攻呉起。起走之王屍而伏之,撃起之徒因射起並中王屍。既葬,粛王即位,使令尹尽誅為乱者,坐起夷宗者七十家。斉大夫与蘇秦争寵,使人刺之,不死,殊而走,斉王求賊不得,蘇秦且死,乃謂斉王曰:「臣即死,車裂臣以徇於市,曰:『蘇秦作乱於斉。』如此則臣之賊必得矣。」於是如其言,而殺蘇秦者果自出,斉王因而誅之。若起与秦,身死而能以術自報其仇,智更足多矣。
書き下し
子猶曰く、「李暠は私忿を戢めず、辱は墓骨に及び、妻子は戮せられ、身も亦た之に随う。天下の笑いと為る。大愚と謂うべし。然れども能く私忿を以て其の父を殺すも、竟に官法を以て其の子を治むる能わざるは、何ぞや。将た侠士は善く蔵れ、始皇の威すら、猶お博浪に行われざるに、況んや他人をや。顧みるに子房の事は秘にして、物色すべき無し。而して茲は書を留め市に標し、顕らかに其の意を行い、得て誰何すること莫し。独り子胥に過ぐるのみならず、且つ子房にも過ぐ。東漢は節義を尚び、或いは其の志節を憐れみて之を庇護せしかも未だ知るべからず。之を要するに、一夫痛みを含めば、報いざれば休まず、死生は急ぐ所に非ず。不韋は真に杰士なるかな」と。楚の悼王薨じ、貴戚大臣乱を作し、呉起を攻む。起は走りて王の屍に之き、之に伏す。起を撃つの徒は因りて起を射て、並びに王の屍に中つ。既に葬られ、肃王位に即き、令尹をして尽く乱を為せる者を誅せしむ。起を坐とせしめて宗を夷す者、七十家。斉の大夫、蘇秦と寵を争い、人をして之を刺さしむるも、死なず。殊まりて走る。斉王は賊を求むるも得ず。蘇秦且に死せんとし、乃ち斉王に謂いて曰く、「臣即し死せば、臣を車裂して以て市に徇し、『蘇秦、斉に乱を作す』と曰え。此の如くなれば、則ち臣の賊は必ず得られん」と。是に於いて其の言の如くすれば、蘇秦を殺せし者は果たして自ら出ず。斉王は因りて之を誅す。起と秦の若きは、身は死するも能く術を以て自ら其の仇に報ゆ。智は更に多とするに足る。
現代語訳
子猶(馮夢龍)は言う。「李暠は私的な恨みを抑えられず、辱めは先祖の墓の骨にまで及び、妻子は殺され、自身もこれに続いた。天下の笑いものとなった。まことに大愚と言うべきだ。しかし、私憤から蘇不韋の父を殺すことはできたのに、官の法で蘇不韋を取り締まることができなかったのは、なぜか。侠客は隠れるのがうまく、始皇帝の威力でさえ、博浪沙では通用しなかった。まして他の人ではなおさらだ。思うに、張良の件は秘密で、探し出す手がかりがなかった。しかし蘇不韋は書き置きを残し、市場に札を立てて、堂々とその意図を実行し、咎める者もいなかった。子胥に勝るだけでなく、張良にも勝る。後漢は節義を尊んだので、あるいはその志と節操を憐れんでかばう者がいたのかもしれない。要するに、一人の男が痛みを抱えれば、報いるまでやめないもので、生死は急ぐところではない。蘇不韋はまことに傑出した人物だ」。楚の悼王が亡くなると、貴族や重臣が反乱を起こし、呉起を攻めた。呉起は王の遺体のところに逃げて伏せた。呉起を攻撃する者たちは、呉起を射て、同時に王の遺体にも矢が当たった。葬儀が終わり、粛王が即位すると、令尹に命じて乱を起こした者を全員誅殺させた。呉起の死に連座して一族を滅ぼされた者は七十家に及んだ。斉の大夫が蘇秦と寵愛を争い、人に蘇秦を刺させたが、蘇秦は死なず、刺客は逃げた。斉王は賊を探したが見つからない。蘇秦は死に際に斉王に言った。「私が死んだら、私を車裂きにして市場で見せしめにし、『蘇秦が斉で乱を起こした』と言ってください。そうすれば、私を殺した賊は必ず捕まります」。その言葉どおりにすると、蘇秦を殺した者は本当に自ら名乗り出た。斉王はこの者を誅殺した。呉起や蘇秦のように、身は死んでも知略によって自分の仇に報いる者は、知恵の面でさらに称賛に値する。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』威克・蘇不韋東漢の蘇不韋は、父の謙、嘗て司隷校尉と為り、暠、私忿を挟みて論じて之を殺す。不韋は時に年十八、喪を載せて郷に帰り、瘞めて葬らず、天を仰ぎて歎じて曰く、「伍子胥は独り何人ぞや」と。遂に母を武都山中に蔵し、姓名を変え、尽く家財を以て剣客を募り、暠を諸陵の間に邀うるも、値わず。久しくして、暠は大司農に遷る。時に右校の芻廥は寺の北垣の下に在り。不韋は親従の兄弟と潜かに廥中に入り、夜は則ち地を鑿ち、昼は伏匿す。是の如きこと経月、遂に暠の寝室に達す。其の牀の下に出ず。会たま暠は廁に如く。其の妾及び小児を殺し、書を留めて去る。暠大いに驚き、自ら室に棘を布き、板を以て地に籍き、一夕に九たび徙る。不韋は其の備え有るを知り、即日夜に魏郡に馳せ至り、其の父の阜の塚を掘り、阜の頭を取りて以て父に祭る。又た市に標して曰く、「李暠の父の頭」と。暠は心痛むも敢えて言わず、憤恚して血を嘔きて死す。不韋は是に於いて喪を行い、改めて父を葬る。〔馮述評〕郭林父論じて曰く、「子胥は猶お強呉に用いらるるを見、闔閭の威に憑る。而して蘇子は力、匹夫に止まり、功は千乗に隆し。子胥に比して尤も過ぐと云う」と。
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